44 闇の魔術師は、話が長い
注)このページはいろいろと、長いです。
カードに記された場所は、王都の外れにある旧天文台だった。
百年ほど前まで、天文学者たちが星を数えていたという塔は、新しい王立天文台が港の近くに建てられてから、ずっと閉鎖されているらしい。
石畳の道が途切れたその先のなだらかな丘の上に、丸い屋根を載せた細長い塔がひょろりと立っていた。屋根の継ぎ目からは蔦が垂れ下がり、窓の多くには板が打ちつけられている。午後の日差しの下で見ても、怪盗の隠れ家として申し分のない寂れ方だった。
「ここに住み着いているのは、変わり者の学者だと思われていたらしい」
シノンが、手元の資料に目を落としながら言った。
「数年前から、夜になると塔の窓に明かりが灯るようになったそうだ。近隣の住民も人が出入りしていることは知っていたが、古い天文台を勝手に使っている物好きがいる、という程度にしか考えていなかったらしい」
「誰も怪盗だとは思わなかったんですか?」
「ああ。昼間はほとんど姿を見せず、たまに町へ下りてきても、古書店で本を買ったり、食料を調達したりするだけだったそうだ」
ナナリーは、馬車の窓から丘の上に立つ塔を見上げた。
怪盗といえば、もっと人目を避けて暮らしているものだと思っていた。まさか、近所の人たちに存在を知られながら、堂々と廃墟に住み着いていたとは。
「……案外、普通の生活をしていたんですね」
「普通の人間は、閉鎖された天文台に勝手に住まないと思うが」
「それもそうか」
改めて塔を眺めると、大半の窓が板で塞がれている中で、一つだけ妙に綺麗に拭かれた窓ガラスが陽を反射していた。
どうやら、住み心地にはそれなりに気を遣っていたらしい。
ナナリーは馬車を降り、丘を吹き抜ける風に髪を押さえかけて、今はそんなことをするほどの長さがないことを思い出した。それに、王子の柔らかな金髪は、風に吹かれて少しくらい乱れても、かえって絵になる。普段ならきちんと整えられている前髪が無造作に額へかかるだけで、令嬢たちが喜びそうな姿になるのだから、世の中は不公平だ。
「本当に、ここで合っているんですよね?」
「合っている。俺も、子どもの頃に一度だけ来たことがある」
隣で、ナナリーの姿のシノンが塔を見上げていた。今日も王妃の行儀見習いとして、外出用の落ち着いた色のドレスを着ている。けれど、その顔に浮かんでいるのは、令嬢らしい不安ではなく、王子らしい警戒の色だった。
二人の後ろでは、ジョルジュが外套の内側に手を入れたまま、周囲を見回していた。
今回の面会には、王妃の手配で「解除への協力に限る」という条件つきの許可が下りている。シルヴァンが入れ替わりの解除に協力する間は、魔術師団も彼を捕らえない。その代わり、話が少しでも危うい方向へ向かえば、すぐに許可を取り消せるよう、ジョルジュが同伴することになった。
王妃の許可証は、ジョルジュの外套の内ポケットに入っている。そして、取り消しのための術式は、彼の右手の指先にいつでも描けるよう準備されていた。
そんな兄の顔は、怪盗に会いに来たというより、妹が怪しい男に騙されないよう見張りに来た保護者のそれだった。どちらも正しいので、ナナリーは何も言わず、見て見ぬふりをした。
以前は、兄の口から愚痴が溢れるたび、仕事の鬱憤を晴らすために妹へ絡むのはやめてほしいとすら思っていた。しかし、自分の失敗のせいなのに、親身になってくれる兄の姿を目の当たりにすると、少しの愚痴ぐらいは許してあげようと思えた。
もちろん、限度はあるけれど。
塔の扉は、ナナリーが手を伸ばす前に、内側から音もなく開いた。
「お待ちしておりました」
薄暗い入口に、一人の男が立っていた。
背が高く、黒く長い外套を纏っている。銀灰色の髪を首の後ろで一つに束ね、年の頃は三十前後だろうか。整った顔立ちに、紫がかった瞳が静かに光っていた。怪盗というより、学院の奥の研究室で何年も本に埋もれていそうな、物静かな学者に見える。
「闇の魔術師、シルヴァンと申します。もっとも、闇の魔術師というのは新聞が勝手につけた呼び名でして、私自身は一度もそう名乗った覚えはないのですが、予告状に署名する際、ほかに適当な肩書きが思いつかず、世間で通りのよい呼び名をそのまま拝借することにいたしました。名乗りというものは、相手に伝わってこそ意味がありますので」
挨拶だけで、ずいぶん長かった。
ナナリーは、カードに書かれていた「少々長い話になります」という一文を思い出した。少々、という言葉の意味について、この人とは一度、きちんと話し合う必要がありそうだった。
*
塔の中は、外の寂れ方からは想像できないほど、きちんと整えられていた。
螺旋階段を上った先の円い部屋には、壁という壁に本棚が据えつけられ、古い書物がぎっしりと並んでいる。天井の丸い屋根には、かつて望遠鏡を覗くために使われていたらしい細長い窓があり、そこから午後の光が一筋、部屋の中央へ差し込んでいた。
光の中を、細かな埃がゆっくりと漂っている。紙と、古いインクと、それから甘いものの焼ける匂いがした。
そう、甘いものの焼ける匂いだ。
ナナリーの鼻が、その匂いを正確に拾った。部屋の中央の丸いテーブルには、白いクロスが掛けられ、四人分の茶器と、焼き菓子を盛った皿が用意されている。焼き色の綺麗な小さな菓子で、表面に木の実がちりばめられていた。
「これ、もしかして」
「お気づきになりましたか。博物館に展示されていた、ヤン・ミュラーの焼き菓子の覚え書きを、私なりに再現したものです。蜂蜜の分量にいささか解釈の余地がありまして、三度ほど焼き直しましたが、焼きすぎると拗ねられるという注意書きに従い、今回は少々浅めに仕上げております」
ナナリーは、もう我慢ができなかった。勧められるより先に椅子へ座り、一つ手に取る。
「いただきます!」
口へ運ぶと、ほろりと崩れる生地の中から、蜂蜜の甘さと、香ばしい木の実の歯応えが広がった。百年以上前に、王女のために焼かれていた味だと思うと、何倍も美味しく感じられる。
「美味しい。ジルレイア王女が拗ねる気持ち、分かります。これを焼きすぎたら、私も拗ねます」
「ナナリー」
ジョルジュが低い声で呼んだ。怪盗の出した菓子を、毒見もせずに口へ入れた妹を、兄は信じられないという目で見ている。
「毒は入っておりませんよ」
シルヴァンが穏やかに言った。
「解除への協力に限るという条件で、王妃様のお許しをいただいております。その条件の中で、お客様に毒を盛るほど、私は約束を軽んじる人間ではございません。それに、もし毒を盛るとしても、ヤンの菓子にはいたしません。ヤンの菓子を、そのような目的に使うのは、ヤンへの冒涜でございますので」
安心していいのか悪いのか分からない保証だった。ナナリーは二つ目の菓子に手を伸ばしかけ、ジョルジュの視線に気づいて、そっと引っ込めた。
シノンは、菓子には手をつけず、椅子に浅く腰かけたまま、シルヴァンを真っすぐに見ていた。
「どうして、俺たちが入れ替わっていると知っていた」
ナナリーの顔で、王子の口調で問うというおかしな状況に、シルヴァンは、少しも驚いた様子を見せなかった。
「そのご質問には、二つの答えがございます。まず、昨夜の博物館を、どうやって拝見していたか。こちらは単純な話で、ヤン・ミュラーの肖像画の複製、あの目の部分に、覗き見の術を仕込んでおきました。複製とはいえ、ヤンの顔を借りるのは少々気が引けましたが、館内を最も広く見渡せる位置に掛けられていたのが、あの肖像画だったものですから」
ナナリーは、昨夜の広間を思い出した。ヤンの品々の上に掛けられた、厳めしい顔の肖像画。お腹が鳴った時も、焼き菓子の覚え書きに見入っていた時も、あの目はずっとこちらを見ていたのだ。
「では、お腹が鳴ったのも」
「拝見しておりました。たいへん立派な音でございました」
ナナリーは、二つ目の菓子を諦めた。
「では、あのカードも、あなたが仕掛けたものですか?」
ジョルジュが外套の内ポケットから、一枚の小さなカードを取り出した。王立魔術博物館に展示されていた、偽物の手稿の最後のページに挟まっていたものだ。
兄の証言によると、最初は何も書かれていなかったはずなのに、途中から文字が浮かび上がり、怪盗からの伝言が記されていたらしい。
「ええ。あらかじめ紙に術式を仕込んでおきまして、離れた場所から文字を書き込めるようにしておりました」
「遠隔筆記の術ですか。しかし、あのカードには魔力を伝えるための媒介が見当たりませんでした」
「通常の遠隔筆記であれば必要ですが、今回は紙そのものに魔力の受信術式を織り込んでおります。繊維の一本一本に微細な術式を定着させ、指定した魔力の波長にだけ反応するよう調整しておけば、距離が離れていても文字を浮かび上がらせることが可能なのです。もっとも、術式の安定には少々工夫が必要でして」
シルヴァンは説明しながら、テーブルの上に一枚カードを出して、指先を向けた。
すると、文字がすうっと薄れ、代わりに新しい一文が浮かび上がった。
『本日はお越しいただき、ありがとうございます』
「わあ!」
ナナリーは思わず身を乗り出した。
インクも羽根ペンも使っていないのに、文字が紙の上に現れていく。しかも、まるで見えない誰かが丁寧に書いているように、一文字ずつ順番に並んでいくのだ。
「……見事ですね」
ジョルジュが感心したように呟いた。
「紙の繊維に直接術式を定着させるとは。しかも、これだけ小さな面積に、受信と文字の形成を両立させている。どうやって魔力の干渉を防いでいるんです?」
「そこにお気づきとは、さすがです。実は術式を三層に分けておりまして、一層目で魔力を受け、二層目で文字の形を指定し、三層目で紙の表面に定着させるのです。層の間には、ごく薄い遮断術式を挟んでおりますので」
「なるほど。三層構造なら、互いの術式が干渉しないのか」
ジョルジュはカードを持ち上げ、光に透かして眺め始めた。
シノンも興味深そうに身を乗り出している。
「これなら、離れた場所にいる相手へ、即座に情報を伝えられるな。軍や外交でも応用できそうだ」
「ええ。複数のカードを同時に制御することも可能です。ただし、術式の定着に手間がかかりますので、大量生産には向きませんが」
「それでも、十分に価値のある技術だ」
シノンが真面目な顔で頷いた。
ナナリーも、つられて頷いた。難しい仕組みはさっぱり分からなかったが、遠くから好きな文字を浮かび上がらせられるなんて、実に便利そうではないか。
「これがあれば、授業中に先生から指名されても、誰かに答えを書いてもらえるということか」
シノンっぽく、賢そうに聞こえる口調を心がけて言ったはずなのに、三人の視線が一斉にナナリーへ向いた。
「……何ですか?」
「君は、せっかくの高度な魔術を何に使うつもりなんだ」
シノンが眉間に皺を寄せた。
「勉学の補助教材としてですけど?」
ナナリーとしては、かなり実用的な提案のつもりだったのに、シノンと兄はぐったりと肩を落とした。
ジョルジュはカードをテーブルへ戻すと、ようやく本来の目的を思い出したらしく、咳払いをした。
「……それで、あなたはどうして、殿下たちが入れ替わっていると知ったのですか?」
「ああ、そちらのご説明がまだでしたね」
シルヴァンは、少しも悪びれずに微笑んだ。
「もう一つの答えは、もう少々長くなります」
シルヴァンは自分のカップに紅茶を注ぎ、香りを確かめるように一度目を閉じた。
「私は、ヤン・ミュラーの研究者でございます。彼が遺した著作や手稿は、百年の間に散り散りになり、その多くは、価値を知らない人々の手を転々としております。なかには、極めて危うい術を記したものもある。ですから私は、ヤンの著作の一冊一冊に、見張りの術をかけてまいりました。どこかで誰かがヤンの術を起動すれば、私にはそれが分かるように」
シルヴァンの紫の瞳が、ナナリーへ向いた。
「試験の前の夜でございましたね。王都のどこかで、ヤンの召喚術の写しが起動されたことに、私は気づきました。慌てて行方を追いましたが、術はすぐに眠ってしまい、場所までは突き止められなかった。そして一か月後、王城の夜会の夜に、眠っていた術が突然目を覚ましたのです」
ナナリーは、紅茶のカップを持つ手に力を込めた。
古書店で、表紙が格好いいという理由だけで買った本。試験勉強から逃げるために描いた魔術陣。モップで拭いた床。その全部を、この人は最初から見ていた。正確には、見えてはいなかったが、気づいてはいたらしい。
「だから、盗んでいたんですか。ヤンの品物を」
「回収、と申し上げたいところですが、法の上では盗みに違いありませんので、そこは言い訳いたしません」
シルヴァンは、静かに頷いた。
「ヤンの術は、正しく扱えば美しいものです。けれど、半端な写しが格安で出回れば、それを手にした誰かが、事故を起こす。お嬢さんの一件は、まさに私が最も恐れていたことでございました」
お嬢さんの一件。ナナリーは、自分が「最も恐れていたこと」の実例として、怪盗の研究に貢献してしまったことを知った。残念なことに、少しも誇らしくはなかった。
シルヴァンはカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。壁一面の本棚の前へ歩いていき、迷いのない手つきで、一冊の分厚い本を引き出す。
古い革の表紙の中央に、金箔の魔術陣が刻まれていた。ナナリーが古書店で買った写しと同じ模様だ。けれど、こちらは金が少しもかすれておらず、天井の窓から差し込む光の下で、まるで息をするように淡く明滅していた。
ナナリーの喉が、小さく鳴った。今度は、お腹ではなかった。ずっと探していた本が、手を伸ばせば届く距離にある。
「では、本題に入りましょう」
シルヴァンは、召喚書の原本をテーブルの中央へ置き、紫の瞳を細めた。
「ここから先は、もう少々、長くなります」




