43 怪盗を捕まえる、予定でした
シルヴァンが盗むと予告した手稿は、ヤンゆかりの品々の中央、ひときわ厳重なガラスの展示棚に収められていた。
古びた革の表紙に、色褪せた紙の束。その表紙の隅に、小さな印が押されている。召喚書の表紙に描かれた魔術陣とも、予告状の紋章とも、同じ形をした印だった。
展示棚の周囲には、魔術師団の団員が四人、近衛が六人、ぐるりと円を描くように立っている。館長によれば、展示棚そのものにも三重の防御結界が張られているのだという。
「これで、怪盗シルヴァンといえども、指一本触れることはできますまい」
館長は胸を張り、それからようやく、案内に満足したように持ち場へ戻っていった。
ナナリーは、展示棚から少し離れた長椅子に腰を下ろした。シノンがその斜め後ろに控え、ジョルジュは団員たちと最後の確認をしている。予告状に時刻は書かれていなかったが、怪盗が動くのは夜更けだろうというのが魔術師団の読みだった。
それから、時間が過ぎた。
広間の大時計が、一度、二度と鐘を鳴らした。魔石灯の光は少しも揺らがず、展示棚の手稿は少しも動かない。警備の団員たちは石像のように立ち続け、館長は持ち場で何度も懐中時計を確かめている。外では夜風が窓を叩き、どこかでフクロウが一声鳴いた。
何も、起こらなかった。
ナナリーは、長椅子の上で背筋を伸ばし続けることにだんだん疲れてきた。
怪盗が予告した夜というのは、もっと劇的なものだと思っていた。天窓が割れ、黒い影が舞い降り、魔術の光が飛び交う。そんな夜を想像していた。ところが実際には、ひたすら静かで、ひたすら長い。学院の退屈な講義と、何も変わらない。違うのは、王子の姿で居眠りをすると王家の評判に関わるという一点だけだ。
しかも、お腹が空いてきた。夕食は早めに済ませてきたが、この身体の胃袋は、時間の経過に対してたいへん正直だった。
くう、と小さな音が鳴った。
ナナリーは慌てて腹筋に力を込めたが、遅かった。静まり返った大理石の広間は、小さな音をよく響かせる。高い天井に跳ね返ったその音は、思っていたよりずっと立派に、警備の団員たちの耳まで届いたらしい。何人かの肩が、ぴくりと動いた。
展示棚の前に立つ近衛の一人が、緊張した面持ちで振り返った。
「殿下、今の音は」
「怪盗では、ありません」
ナナリーは、できるだけ威厳を込めて答えた。斜め後ろで、シノンが静かに額を押さえる気配がした。
空腹を紛らわせようと、ナナリーは改めて展示棚へ目を向けた。どうせ見張るのなら、少しでもよく見ておこう。退屈な講義の時、教本の挿絵を眺めて時間を潰すのと同じ要領だ。
古びた革の表紙。色褪せた紙。隅に押された小さな印。魔石灯の光を受けて、紙の端がかすかに金色に光っている。
見ているうちに、ナナリーは小さく首を傾げた。
何かが、足りない気がする。古びた革の表紙も、色褪せた紙も、確かにそこにある。けれど、見れば見るほど、目の前の手稿が妙に平たく感じられた。
まるで、本物そっくりに描かれただまし絵を眺めているようだった。見た目は何ひとつおかしくないのに、そこに実物があるとは思えない。
ナナリーは、シノンの寝室に掛けられたヤンが描いたイリスの絵を思い出した。入れ替わった最初の夜、寝台から見上げたあの絵だ。花びらから茎へ、茎から水辺へと、魔力がゆっくりと巡っていた。眺めているだけで呼吸まで穏やかになるような、生きた流れがあった。百年以上前に描かれたものなのに、絵の具の中で、まだ花が息をしていた。
同じヤンの手から生まれたものなら、この手稿にも、似た流れがあるはずではないだろうか。
ナナリーは立ち上がり、展示棚へ近づいた。警備の団員たちが道を空ける。ガラス越しに、もう一度手稿を見つめた。それから、隣の棚に並ぶ焼き菓子の覚え書きへ目を移す。
覚え書きの紙の上では、かすかではあるが、確かに魔力が巡っていた。インクの線から紙の繊維へ、細い糸のような流れが、絵のそれと同じ優しい速さで行き来している。羽ペンにも、懐中時計にも、程度の差はあれ、同じ流れがあった。
けれど、中央の手稿だけは違った。紙の上で、何も動いていない。流れが止まっているのではなく、最初から流れていた跡がない。
「死んでるみたい」
思わず呟いていた。
見た目は、焼きたてのパンそっくりなのに、匂いが一つもしない。そういうパンを、ナナリーは一度だけ見たことがあった。菓子店の店先に飾られていた、蝋で作られた見本だ。あれを本物だと思って手に取った時の、指先に伝わる冷たさと、鼻の奥が空振りする感じを今でも覚えている。
目の前の手稿は、まさにあの見本と同じだった。
「殿下?」
館長が、慌てた足取りで戻ってきた。
「何か、ご不審な点でも」
「この手稿、本物ですか」
広間の空気が、凍りついた。館長の顔から、さっと血の気が引いていく。
「も、もちろんでございます。先週、鑑定士が三人がかりで確認いたしました。展示に際しても、毎日私自ら」
「でも、ほかのヤンの品と、魔力の流れ方が違います。覚え書きにも、羽ペンにも、流れがあるのに、この手稿だけ、何も動いていないんです。寝室の、いえ、王城にあるヤンの絵とも全然違う」
館長は口を開けたまま、言葉を探していた。王子の言葉を正面から否定するわけにもいかず、かといって、自分の展示を偽物だと認めるわけにもいかないらしい。団員たちの間に、ざわめきが広がった。
ナナリーは、急に不安になった。自分は今、王子の顔と声で、王立博物館の目玉の展示を偽物だと口にした。もしただの勘違いだったら、成績下位の伯爵令嬢の直感で、王家の評判に泥を塗ることになる。
その時、背後から控えめな令嬢の声がした。
「僭越ながら、館長様」
シノンだった。ナナリーの顔で、完璧な淑女の笑みを浮かべ、膝を美しく曲げて一礼している。
「殿下は、王城でヤン・ミュラーの真筆を毎日ご覧になっていらっしゃいます。その殿下がおっしゃるのですもの。念のため、もう一度お確かめいただいてはいかがでしょう」
見習い令嬢の言葉に、館長は救われたように頷いた。確かめてから否定すれば、自分の面目も立つと考えたのかもしれない。
「で、では、念のため。ジョルジュ殿、鑑定をお願いできますかな」
ジョルジュが前へ進み出た。結界を一時的に解く許可を取り、展示棚のガラス越しに、両手で細かな術式を描いていく。青白い光が手稿を包み、紙の一枚一枚を撫でるように走った。
光が消えた時、ジョルジュの顔は、いつになく険しかった。
「偽物です」
その一言で、広間がどよめいた。
「紙は古く見えるよう加工された新しいものです。表面に、古書に見せかける幻術が薄く重ねてある。鑑定士が見たのは、おそらく本物でしょう。すり替えられたのは、その後です。それも、相当に腕のいい者の仕事だ」
館長が、膝から崩れ落ちそうになった。近衛の一人が慌てて支える。
「では、予告状は」
「予告状の日付は、目くらましだったのでしょう」
シノンが令嬢の顔のまま、静かに言った。
「新月の夜に盗みに来ると告げれば、警備はこの夜に集中します。今夜、皆さまが守っていらしたのは、最初から偽物だったのです」
ナナリーは、展示棚の中の手稿を見下ろした。王立博物館の警備と、魔術師団と近衛、合わせて二十人近くが、一晩中、蝋のパンを見張っていたことになる。
怪盗を捕まえる予定だったのに、現実は、怪盗にからかわれていただけだったようだ。
*
騒然とする広間の隅で、シノンがナナリーの袖口に指先を添えた。周囲の団員たちは館長とジョルジュを取り囲み、誰もこちらを見ていない。
『よく気づいたな』
頭の中に響いた声は、思っていたよりずっと静かだった。
『鑑定士が三人がかりで見落として、魔術師団が二十人で見張っていたものを、君は見ただけで見抜いた。魔力の流れを、絵と比べるなんて発想は、俺にはなかった』
ナナリーは、少し驚いてシノンを見た。自分の顔が、真剣な目でこちらを見上げている。からかう気配は、どこにもなかった。
『たまたまです。お腹が空いて、ほかに見るものがなかったから』
『それでも、気づいたのは君だ。俺は、館長の説明の方を聞いていたし』
褒められている、と理解するまでに少し時間がかかった。学院でも屋敷でも、ナナリーが褒められるのは、たいてい食べっぷりか、転び方が派手だった時くらいだ。観察力を褒められたことなど、記憶にある限り一度もない。
『君の目は、俺には真似できない』
シノンは、それだけ言って指を離した。念話が途切れ、広間のざわめきが耳に戻ってくる。
ナナリーは、急に顔が熱くなるのを感じた。王子の顔で赤くなっているのは、たいへんまずい。慌てて展示棚の方へ向き直り、手稿を見つめるふりをした。胸の奥が、新月の夜にはふさわしくないほど、明るく跳ねている。蝋のパンを見抜いて褒められただけで、こんなにも嬉しくなる自分が少し不思議だった。
その時、展示棚の中を調べていたジョルジュが、短く声を上げた。
「殿下。これを」
ジョルジュが、偽物の手稿の最後のページから、一枚の小さなカードを引き抜いていた。厚手の上質な紙で、角には銀色の線で紋章が描かれている。
周囲の目を避けるように、ジョルジュはカードをナナリーとシノンの間へ差し出した。三人で、身を寄せて覗き込む。流れるような筆跡で、こう書かれていた。
――王子殿下の身体にいらっしゃるお嬢さんと、お嬢さんの身体にいらっしゃる殿下へ。
ナナリーの背中を、冷たいものが走った。
入れ替わりのことは、ごく限られた人しか知らない。ジョルジュとエルネット、ジェニーとギュスター、王妃と、それからカラスのクロ。それなのに、カードの差出人は、まるで最初から知っていたかのように、正確に二人を呼んでいた。
――今宵は、見事な目をお持ちの方がいらして、少々驚きました。お探しの本について、お話がございます。ただし、少々長い話になりますので、お茶菓子はこちらでご用意いたしましょう。
その下に、日時と場所が記されていた。そして最後に、署名がひとつ。
――闇の魔術師シルヴァン。
ナナリーは、カードから顔を上げた。シノンも、ジョルジュも、同じように息を詰めている。広間の向こうでは、館長がまだ近衛に支えられ、魔術師団の団員たちが慌ただしく駆け回っていた。
月のない夜の暗がりのどこかで、怪盗がこちらを見て笑っている気がした。




