42 怪盗を捕まえる、予定です
シルヴァンが予告状を出した日は、月のない夜だった。
王立魔術博物館の正面玄関へ続く石段は、両脇に並べられた魔石灯に照らされ、昼間とは違う顔をしていた。
空を見上げても、そこにはいつもの銀色の円がない。星だけがまばらに瞬き、建物の白い円柱の影を、ふだんより深く濃く地面へ落としている。
新月の夜は暗いものだと知識としては知っていたが、怪盗が来ると分かっている夜の暗さは、同じ暗さでもどこか質が違って見えた。
ナナリーは石段の途中で一度立ち止まり、王子の礼服の襟元を指で整えた。今夜のために用意された上着は、普段のものより生地が厚く、肩のあたりに金糸の刺繍が施されている。
王子が調査協力として博物館を訪れるのだから、それらしい格好をしなければならないらしい。怪盗を捕まえに来たというより、怪盗に狙われる側の宝物になった気分だった。
それでも、胸の奥は落ち着かないほど弾んでいた。シルヴァンを捕まえれば、召喚書の原本に辿り着ける。原本が戻れば、欠けたページも分かる。そうなれば、舞踏会で誰かの足を踏む未来からも、王子の身体で試験を受ける未来からも、まとめて逃げられる。
今夜は、一か月という期限の中で、初めて見えた解決への近道だった。
入口の前には、魔術師団と近衛がずらりと並んでいた。ナナリーが石段を上りきると、一斉に敬礼が返ってくる。何十人分もの視線が自分に集まり、思わず背筋を伸ばした。
何か一言、かけるべきなのだろう。王子とはそういうものだ。けれど、前に近衛へ「ゆっくり寝てね」と言ったら、一睡もしない誓いを立てられたことを、忘れていなかった。今夜は、余計な誓いを増やさない言葉を選ばなければならない。
「皆さん、今夜はよろしくお願いします。無理はせず、交代で休憩も取ってください。その、休憩の取り方は、隊長の指示に従って」
最後の一言を付け足したのは、我ながら上出来だった。誰の勤務も変えず、誰にも眠らない誓いを立てさせていない。敬礼がもう一度返ってきて、ナナリーは小さく胸を撫で下ろした。
隣に控えていたジョルジュが、ほんのわずかに頷いた。合格、という意味らしい。兄に褒められた記憶はあまり多くないので、一つ一つを大事にしておこうと思った。
その後ろで、淡い色のドレスに外套を羽織ったナナリーの姿のシノンが、王妃の行儀見習いとして控えめに頭を下げていた。王妃のはからいで同行が許されたものの、表向きの立場は「殿下に付き添う見習いの令嬢」でしかない。近衛たちは誰一人、彼の方を見ていなかった。
普段なら真っ先に敬礼を受ける人が、自分の顔で、誰からも気にされずに立っている。その姿は少し気の毒で、少しだけおかしかった。
もっとも、内心では近衛たちも気になっているのだろう。シノンは現在、婚約者選びの真っ最中なのだ。その王子が、夜の博物館へ特定の令嬢を連れてきている。事情を知らなければ、二人の関係を勘繰りたくなるのが普通だ。
それなのに、近衛たちはシノンの姿をしたナナリーにだけ視線を向け、背後に控える令嬢には見事なまでに無関心を貫いている。さすがは厳しい選抜を経て王城勤めを許された精鋭たちである。
これがルルーナだったら、どうだろう。
きっと最初の三秒で二人の関係を疑い、五秒後には婚約の可能性まで考え始めるに違いない。そして翌朝には、王子が夜の博物館へ特定の令嬢を伴ったという話が、学院中に広まっているに違いない。
ナナリーは改めて、近衛たちの口の堅さに感謝した。少なくとも今夜は、怪盗のほかに噂話まで捕まえる必要はなさそうだった。
「殿下! ようこそお越しくださいました」
玄関の扉が開き、恰幅のよい初老の男性が転がるように出てきた。博物館の館長だという。丸い眼鏡の奥の目が、王子を前にした感激できらきらと潤んでいる。
「まさか殿下ご自身が警備にご協力くださるとは。この老骨、生きているうちにこのような光栄に浴せるとは思いもよりませんでした。さあ、さあ、どうぞ中へ。展示の見どころを、私自ら、隅から隅までご案内いたしましょう」
隅から隅まで、という言葉に、ナナリーは少しだけ嫌な予感を覚えた。
*
予感は、正しかった。
館長の案内は、熱心という言葉では足りなかった。入口の大広間に飾られた古代の杖一本について、発掘された土地の気候から、当時の職人が好んだ木材の種類、その木材が育つ森の歴史まで、館長は一度も息継ぎをせずに語り続けた。
次の展示室では古い魔術陣の石板について、その次では魔石の加工技術の変遷について、同じ熱量の解説が続く。
大理石の床は冷たく、歩くたびに靴音が高い天井へ吸い込まれていった。展示室には古い紙と蝋の匂いがこもり、魔石灯の柔らかな光が、ガラスの展示棚に並ぶ品々を浮かび上がらせている。
静かで、厳かで、知識の匂いがする場所だった。学院の図書室と同じで、ナナリーにとっては長くいるほど瞼が重くなる種類の空気だ。
後ろを振り返ると、シノンが展示棚の前で足を止め、熱心に石板を覗き込んでいた。館長の説明に、ときどき小さく頷いている。どうやら本気で興味があるらしい。けれど、館長が説明を向けるのは常に王子であるナナリーの方で、後ろの見習い令嬢には一度も目を向けなかった。
シノンは時折、何か質問したそうに口を開きかけては、自分が今は行儀見習いであることを思い出したように閉じている。
知りたいことを聞けない王子と、聞きたくないことを聞かされ続ける伯爵令嬢。あまりに理不尽すぎる状況だ。誰でもいいから、この場だけでも中身を元に戻してほしかった。
「そして殿下、こちらが本展示の目玉でございます」
館長が両腕を広げた先に、ひときわ明るく照らされた一角があった。壁には、伝説の魔術師ヤン・ミュラーの肖像画の複製が掛けられている。その下に並ぶ展示棚の中には、彼が使ったとされる羽ペン、愛用の懐中時計、手書きの書簡が、丁寧に収められていた。
「王家の紋章の意匠を生み出し、幾度も国を救った大魔術師、ヤン・ミュラー。そのゆかりの品々を、これほど一堂に集めた展示は、王国の歴史上でも初めてのことでございます」
館長の声が、誇らしげに広間へ響いた。
ナナリーは、展示棚の一つに目を留めた。黄ばんだ紙に、几帳面な字で何かが書きつけられている。添えられた説明札には、こうあった。
――ヤン・ミュラー直筆、焼き菓子の覚え書き。ジルレイア王女の好物を記したものと伝わる。
「焼き菓子」
思わず声に出ていた。身を乗り出して覗き込むと、紙には、粉とバターと蜂蜜の分量が細かく書かれている。その横に、走り書きのような一文が添えられていた。
『殿下は木の実入りを好まれる。焼きすぎると拗ねられる』
国を何度も救った大魔術師が、王女のために焼き菓子の焼き加減を書き留めていた。しかも、焼きすぎると拗ねられる、という注意書きつきで。ナナリーの中で、肖像画の厳めしい魔術師が、急に近所の菓子屋の主人のような親しみやすさを帯び始めた。
「館長、このお菓子、今の材料で作れますか」
「は?」
「いえ、学術的な関心です。古代の、食文化への」
館長が目を瞬かせている間に、背後から袖を軽く引かれた。振り返ると、シノンがにこやかな令嬢の顔のまま、ナナリーの袖口に指先を添えている。
『菓子の覚え書きを見に来たんじゃない』
頭の中に、低い声が響いた。触れている間だけ使える念話だ。笑顔と声の温度差が、あまりにも大きかった。
『分かってます。目玉は手稿の方でしょう』
『分かっているなら、よだれを拭け』
ナナリーは慌てて口元に手をやったけれど、何もついていなかった。




