41 非常食(シノン視点)
荷造りは、翌朝から始まった。
ナナリーの部屋には、侍女が三人とマリアナ、さらに荷物の数を確かめるという名目で侍女頭まで集まり、白とピンクの部屋はたちまち人と布と箱で埋まった。シノンは寝台の端に追いやられ、ナナリーの持ち物が次々と箱へ詰められていくのを眺めていた。
王城の客室には、必要なものはすべて揃っている。そう伝えたのだが、マリアナは「娘の身の回りのものを、王妃殿下に用意していただくわけにはいかないわ」と譲らなかった。その気持ちは理解できる。理解できなかったのは、いったい何箱用意したらマリアナは気が済むのかという点だけだった。
異変が起きたのは、侍女の一人が机の引き出しを開けた時だった。
「まあ」
薄紙に包まれた焼き菓子が、三つ出てきた。
「こちらにも」
別の侍女が、二段目の引き出しから同じ包みを取り出す。そこから先は、まるで宝探しだった。鏡台の小物入れからはドロップの缶、本棚の小説の裏からは砂糖菓子の小瓶、寝台の下の箱からは乾燥果実の袋が出てくる。極めつけに、衣装棚の帽子箱の中から、なぜかクッキーの詰め合わせが缶ごと現れた。
もちろん全ての菓子に、鮮度保持魔術式が仕掛けられている。どう見ても才能の無駄遣いだ。
シノンは、ジョルジュの言葉を思い出した。隠し込んだ菓子の甘い香りが漏れ出す部屋。あの時は冗談だと思っていたが、冗談ではなかった。それどころか、彼の説明は控えめですらあった。
寝台の上に並べられた菓子の山は、小さな菓子店なら開けそうな量になった。侍女頭が、無言で帳面に数を書きつけている。マリアナが、ゆっくりとこちらを振り返った。
「ナナリー。これは、何かしら」
シノンは、その山を見つめた。王子として、この菓子を隠した責任は一つもない。だが、この身体の持ち主の名誉を守る義務は、今の自分にある。そして、本人が以前、真剣な顔で言っていた言葉がちょうど頭の中に残っていた。
「非常食、です」
「非常食」
「食いしん坊なわけじゃないの。緊急時に備えているだけ」
マリアナは、帽子箱から出てきたクッキーの缶を持ち上げた。
「帽子箱に?」
「帽子を被るような外出の時に、緊急事態が起きるかもしれないから」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。だが、マリアナは長い長いため息をつき、それから、なぜか少し笑った。
「本当に、変わったのか変わっていないのか、分からない子ね」
呆れた声なのに、どこか温かかった。マリアナは缶をシノンの膝の上に置き、髪をそっと撫でた。
「王城でも、ちゃんと食べるのよ。王妃殿下の前で、お腹を鳴らさないように。これは持っていっていいわ。ただし、帽子箱ではなく、ちゃんとした箱に入れなさい」
髪に触れた手のひらは、温かかった。シノンの母も、優しい人だ。だが、王妃である母がこんなふうに髪を撫でてくれたのは、いつが最後だっただろう。物心ついた頃には、頭を撫でられるより先に、背筋を伸ばすよう言われていた気がする。
不満に思ったことはない。それが自分の立場だと、早くから分かっていた。
それでも、膝の上のクッキー缶の重みと、髪に残る手のひらの温度は、思っていたよりずっと胸に響いた。この家の娘は、朝に弱く、よく食べ、勉強を嫌がり、部屋中に菓子を隠している。そして、それを全部知られた上で、こんなふうに送り出されるのだ。
自分はこの温かさを、本人に断りなく受け取っている。そう思うと、クッキー缶が少しだけ重くなった。元に戻ったら、ナナリーに伝えなければならない。
君の母親は、帽子箱の非常食まで許してくれた、と。
*
昼過ぎ、屋敷の前に王家の馬車が着いた。
玄関には両親が並び、その後ろには使用人たちが、扉の両脇にずらりと控えていた。マリアナはハンカチを握りしめ、父親は昨夜とは別のハンカチを握りしめている。まるで、娘を遠い国へ嫁がせる朝のようだったが、行き先は、馬車で半刻もかからない王城である。
「ナナリー、王妃殿下に失礼のないようにね。膝はもう少し曲げて」
「お母様、それはもう」
「それから、帽子は」
「ちゃんとした箱に入れたわ」
マリアナは満足そうに頷き、最後にシノンを抱きしめた。ふわりと、家の匂いがした。焼き菓子と紅茶と、洗いたてのリネンの匂いだった。
馬車へ乗り込もうとすると、使用人の列の端から、白い前掛けをつけた料理長が進み出た。両手に、紙袋を一つ抱えている。
「お嬢様。こちら、焼き菓子でございます」
「ありがとう。でも、どうして」
「お嬢様の非常食に、と」
料理長は大真面目な顔で、紙袋を差し出した。どうやら、今朝の宝探しの顛末は、昼までに屋敷中へ知れ渡っていたらしい。後ろの使用人たちが、揃って神妙に頷いている。シノンは礼を言って紙袋を受け取りながら、この焼き菓子だけは、本人に帽子箱へしまわせないよう見張ろうと心に誓った。
馬車へ乗り込むと、ジョルジュが向かいに座った。扉が閉まっても、窓の外ではマリアナがハンカチを振り、伯爵は鼻をかんでいる。馬車が動き出すと、使用人たちが一斉に頭を下げ、その中で料理長だけが、なぜか小さく手を振っていた。
屋敷が角の向こうへ消えると、ジョルジュが大きく息を吐いた。
「お疲れさまでした、殿下」
「君の家族は、賑やかだな」
「申し訳ありません」
「謝ることじゃないよ」
シノンは、膝の上の箱と紙袋へ目を落とした。帽子箱から救出されたクッキー缶が、きちんとした木箱の中に収まっている。その隣で、料理長の焼き菓子がまだほんのりと温かかった。
「いい家族だ」
ジョルジュは何か言いかけて、やめた。少しだけ照れたように窓の外へ目をやり、それから上着の内側から一枚の紙を取り出した。
「殿下。到着前に、お伝えしておきたいことが」
差し出されたのは、王立魔術博物館の展示目録の写しだった。古代魔術展に並ぶ品の名が、細かな字で連なっている。シノンが目を走らせていると、ジョルジュの指が、一つの項目の上で止まった。
「館長に確認しました。展示品の中で、あの予告状の紋章と同じ印を持つ品は、一つだけです」
そこに記されていたのは、品名ではなく、短い説明だけだった。
――作者不詳の手稿。欠損あり。召喚術に関する記述を含むと推定。
シノンは、膝の上の木箱を思わず強く掴んだ。馬車の車輪が石畳を叩く音が、急に大きく聞こえる。次の新月まであと五日だった。




