40 ナナリーだもの(シノン視点)
鼻をかみ終えた伯爵は、ふと何かに思い当たったように顔を上げた。
「だが、ナナリー。王城で毎日、王妃殿下のお傍に仕えるのだろう。大丈夫なのか。お前は朝が」
「学院へ通うことを優先していただけるそうよ」
「そういう問題ではなく、朝が」
伯爵は、そこで言葉を選ぶように一度黙った。この家の人間は、ナナリーの朝について語る時、なぜか全員が慎重になる。
その隙に、壁際の侍女頭が、控えめに口を開いた。
「僭越ながら、旦那様。最近のお嬢様なら大丈夫でございます。ご自分で起床なさり、ご自分でお着替えもなさって、お行儀もとてもよくなってしまわれて……」
褒めているのか心配しているのか、相変わらず判別がつかない。この屋敷では、ナナリーの行儀がよくなることは、喜びと同じくらい心配の種になるらしい。
マリアナが、ぱんと両手を打ち合わせた。
「こうしてはいられないわ。ドレスを仕立てなくては。王妃殿下のお傍に上がるのに、去年の流行の袖ではとても。それに靴も、手袋も、髪飾りも。真珠がいいかしら。いえ、王妃殿下の前で真珠は控えめすぎる? それとも出過ぎた令嬢に見えちゃうかしら?」
「母上、あくまで行儀見習いですから」
ジョルジュが穏やかに制したが、マリアナの耳には届いていなかった。彼女はすでに執事を呼び、明朝一番で仕立屋を呼ぶよう言いつけている。その声の弾み方は、二階へ上がる階段の途中で息を切らしていたシノンには、到底真似できない軽やかさだった。
「それから、オードリー様にもお知らせしなくては。あの方、先月、ご自分のお嬢様が王女殿下のお茶会に呼ばれたと、三回も同じお話をなさったのよ。それに、バシュレ夫人にも」
「母上」
ジョルジュが呼びかけたが、マリアナの勢いは止まらなかった。
「そういえば、バディスト侯爵夫人は、ロザリー様のために新しいドレスを作らせたらしいわ。なんでもシノン殿下のお見舞いにお部屋へ伺ったとかで、脈ありなんですって。ああ、それにレベッカ様にもお伝えしなくてはいけないわね」
「母上、ナナリーの行儀見習いの件は、王妃殿下のご意向もありますので、まだあまり」
ジョルジュの声に、わずかに焦りが混じった。シノンは、夜会の夜に王城の応接間でジョルジュが口にした言葉を思い出した。
『母上に話したら、明日には誰かに相談している』
あれは誇張ではなかったらしい。明日どころか、今夜のうちに手紙が三通は書かれそうな勢いだった。
そのマリアナが、不意にシノンの前で足を止めた。先ほどまでの興奮とは違う、何かを探るような光が、その目に宿っている。
「ねえ、ナナリー。もしかしてシノン殿下が王妃殿下に、何かおっしゃってくださったのではないかしら」
シノンの背筋が、勝手に伸びた。
「どうして、そう思うの」
「だって、最近ジョルジュと一緒に、殿下のところへ何度も伺っているでしょう。それに、ルルーナ様のお母様から聞いたのだけれど、学院では、あなたが恋をしたって噂になっているそうじゃない」
居間の空気が、ふたたび止まった。伯爵はハンカチを下ろし、侍女頭はポットを置く場所を見失ったまま立ち尽くしている。ジョルジュだけが、天井の一点を見つめて動かない。
噂は、学院の食堂から令嬢たちの耳へ、令嬢たちから母親たちへ、そして母親たちのお茶会からこの居間まで、わずか数日で辿り着いたらしい。魔術師団の伝令でも、ここまで速くはないだろう。
「そのお相手が、まさか」
「違うわ」
シノンは即答した。答えてから、あまりに速すぎたと気づく。マリアナの目が、獲物を見つけた猫のように細くなった。
「まあ。まだ何も言っていないのに」
王子として、言葉を受け流す訓練は人並み以上に積んできたはずだった。舞踏会で令嬢の熱い視線をかわすのも、外国の使節の際どい問いをはぐらかすのも得意な方だと自負していた。それなのに、伯爵夫人の一言にはまるで歯が立たない。相手の娘の顔で、その娘の母親から、自分との恋を問い詰められるという状況が、王子教育のどの項目にも想定されていなかったせいだ。
しかも厄介なことに、父である国王の中では、すでにその話がまとまりかけている。ここで完全に否定すれば、いずれどこかで辻褄が合わなくなる。かといって、ナナリーの身体で自分との恋を肯定するのは、何かの一線を越えている気がした。
助けを求めて隣を見ると、ジョルジュが小さく咳払いをした。一回。一回は、おかわりの合図だ。今、この場で、何をおかわりしろというのか。
困り果てたシノンの頭に、枕元の紙に書かれた四番目の注意事項が浮かんだ。勉強を勧められたら、まず嫌な顔をする。
「それより、お母様。行儀見習いということは、王妃殿下のもとで、毎日お作法のお勉強をするということよね」
「ええ、そうよ。素晴らしいことだわ」
シノンは、ナナリーの眉をめいっぱい寄せ、口をへの字に曲げた。鏡で練習したことはないが、この数週間、本人が勉強の話をされた時の顔なら、何度も向かいの席から見てきた。
「勉強は、嫌い」
マリアナの目から、猫の光がすっと消えた。
「まあ。そうよね。そうだったわ。ナナリーだもの」
なぜか、心の底から安心したような声だった。伯爵はハンカチをしまい、侍女頭はようやくポットをテーブルへ置いた。居間の空気が、いつもの散らかった温かさを取り戻していく。
正解するたびに、自分から遠ざかる。王子としての十七年分の振る舞いが、この家ではことごとく裏目に出て、勉強嫌いの顔一つで全てが丸く収まる。
シノンは、どこか釈然としない気持ちのまま、ようやく注がれた紅茶を受け取った。




