39 うちの娘が、王妃様の行儀見習いに(シノン視点)
ドラクロワ伯爵家に王家の使者が訪れたのは、夕食を終えた家族が居間へ移り、食後の紅茶を待っている時だった。
窓の外では、西の空に残っていた茜色が、ようやく群青へ溶けかけている。暖炉に火を入れるほどの季節ではないが、居間には燭台の明かりが灯され、長椅子の背に掛けられた膝掛けや、テーブルの端に置き忘れられた刺繍の枠を柔らかく照らしていた。
伯爵が読みかけのまま置いた新聞が、長椅子の肘掛けからずり落ちかけているのに、誰も直そうとしない。王城の居室では決して見られない、生活の匂いのする散らかり方だった。
社交シーズンが終わりに近づき、長兄のヴィクトール一家は、数日前に領地へ帰っていた。甥の泣き声と笑い声が消えた屋敷は、それでもまだ、王城よりずっと賑やかだった。
シノンは長椅子の端に腰かけ、本を読んでいた。ナナリーの身体で過ごすようになって数週間が経ち、この居間の空気にもいくらか慣れたつもりでいた。彼女の家族もまた、落雷の影響をすんなり受け入れ、娘の行動の変化を柔軟に受け入れているようだった。
だが、執事が銀の盆に一通の封書を載せて入ってきた瞬間、その慣れは跡形もなく吹き飛んだ。
白い封筒に押された深い青の封蝋。そこに刻まれた白いイリスの紋章を、シノンは誰よりもよく知っている。母が私的な書簡に使う印だった。
「旦那様。王妃殿下より、お手紙でございます」
その一言で、居間からあらゆる音が消えた。刺繍の枠に手を伸ばしかけていたマリアナが、その姿勢のまま止まる。ずり落ちかけた新聞を拾おうとしていた伯爵も固まり、壁際に控えていた侍女頭までが、ポットを傾けたまま息を止めていた。やがて伯爵は、まるで火のついた薪でも受け取るような手つきで封書を受け取り、二度ほど裏返してからようやく封を切った。
シノンは、隣に座るジョルジュの横顔をちらりと窺った。彼は涼しい顔で紅茶を待っている。昨日、三人で王妃の私室を訪ねた時から、この手紙が届くことは分かっていた。分かっていなかったのは、それを受け取る家族の反応の大きさだけだ。
「ナナリーを」
手紙に目を走らせた伯爵が、かすれた声を出した。
「王妃殿下の行儀見習いとして、王城でお預かりしたいと」
次の瞬間、マリアナが立ち上がった。刺繍の枠が膝から滑り落ち、絨毯の上でころんと転がる。
「うちの娘が、王妃殿下の行儀見習いに!?」
その声は、居間の天井を突き抜けて、屋敷の隅々まで届いたに違いなかった。扉の向こうで、使用人たちが一斉に足を止める気配がする。
「あなた、もう一度読んでくださる? 本当に、ナナリーと書いてありますの? ナタリーとか、ナタリアとか、似たお名前のどなたかではなくて?」
「ドラクロワ伯爵令嬢ナナリー、と書いてある」
「まあ。まあ、まあ、まあ」
マリアナは両手を頬へ当て、居間の中をぐるりと一周した。一周では足りなかったらしく、もう半周してから、ようやくシノンの前で止まる。その目は潤み、頬は燭台の明かりより赤く染まっていた。
「ナナリー! あなた、いったい何をしたの?」
褒められるのかと思いきや、最初に来たのは疑いだった。王子として生きてきた十七年間、何かを成し遂げた時に「何をしたの」と問われたことは一度もない。この家の娘は、良い知らせが届いても、まず何かをやらかしたのではないかと疑われるらしい。シノンは、ナナリーという人間の日頃の行いについて、また一つ理解を深めた。
「何も、していないわ」
「何もしないで、王妃殿下からお声がかかるわけがないでしょう」
鋭い指摘だった。実際には、何かをしたのはナナリーの方で、しかもそれは、王子の身体で王妃と夕食を共にし、伴侶候補の話まで引き寄せてしまうという、マリアナが聞けば卒倒しかねない内容だ。シノンが答えに迷っていると、隣でジョルジュが静かにカップを置いた。
「落雷の件で、王妃殿下がナナリーを気にかけてくださったそうです。殿下を巻き込んだ事故でしたから、王家としても、その後の様子を見守りたいと」
完璧な説明だった。昨日、王妃の私室で三人がかりで練り上げた文面を、ジョルジュは一字一句違わずに口にしている。入れ替わった相手が、彼の妹でよかった。そう思いかけてから、シノンは、そもそもの原因を作ったのも彼の妹だったことを思い出した。
マリアナは胸に手を当て、深く息を吸った。
「なんて、お優しい」
「それに、王妃殿下のお庭で何度かお会いした時、ナナリーのお辞儀を褒めてくださったとか」
ジョルジュが、さらりと付け足した。
「ナナリーのお辞儀を?」
今度は、居間の全員がシノンを見た。伯爵も、マリアナも、ポットを持ったままの侍女頭までもが、こちらを凝視している。マリアナが、震える声で尋ねた。
「膝の曲げ方が足りないと、私が十年言い続けた、あのお辞儀を?」
シノンは、褒められたお辞儀の裏に、十年分の小言が積み重なっていたことを初めて知った。正確に言えば、王妃が褒めたのはシノンが身につけた王城仕込みのお辞儀であって、ナナリーの十年分ではない。だが、感激しているマリアナにそれを指摘できるわけがなかったし、そもそも、それを説明できる人間は、この居間に二人しかいない。
マリアナが、ふと眉を寄せた。
「ナナリー、最近本当に人が変わったようになったけど、大丈夫なの?」
やはり最後は心配されるらしい。シノンは、ナナリーの顔でにこりと微笑んでおいた。
「落雷の後から、少し、気をつけるようにしていたから」
「落雷が、うちの娘を」
伯爵が懐からハンカチを取り出し、目元を押さえた。彼の肩が、小刻みに震えている。
「学生は学業が大事だと、あれほど言ってきたのに。お前はまだ子どもで、誰かの嫁になるなんて早いと思っていたのに」
「あなた、行儀見習いよ。お嫁入りではないわ」
「分かっている。分かっているが、王城へ預けるとなれば、同じようなものだろう」
同じではない。少なくとも、王城の客室で召喚術の術式を睨み、怪盗の行方を追う予定の行儀見習いは、嫁入りとはほど遠い。シノンは慰めの言葉を探したが、伯爵がハンカチで鼻をかむ音に遮られた。




