38 怪盗から、日程のお知らせです
甘くない焼き菓子を紅茶で流し込むと、喉の奥の引っかかりも、一緒にどこかへ流れていった。少なくとも、そういうことにしておこうとナナリーは決めた。気になることを後回しにするのは、宿題で鍛えた数少ない特技だ。それに、報告はまだ全部終わっていない。
「ただ、王妃様から期限を切られています」
カップを受け皿へ戻し、昨夜聞いたもう一つの話を付け足した。
「一か月後の建国祭の舞踏会までに元に戻れなかったら、私が殿下として、どなたかと最初の一曲を踊ることになるそうです」
シノンの顔から、再び表情が消えた。今日だけで何度目だろうと、ナナリーは数えかけてやめた。
「君が、俺として、リードを?」
「はい。足を踏む予定です」
「予定にするな」
「でも殿下、私は一般教養過程の必修の一つ、ダンスの授業で先生の足を踏まなかった日がないんです。一学期で三十七回でした」
「数えていたのか」
「踏むたびに先生が小さく唸るので、つい」
ジョルジュが、手帳から顔を上げずに口を挟んだ。
「殿下、補足いたしますと、それは妹がまだ真面目に数えていた頃の数字です」
「お兄様」
シノンは額を押さえ、低い声で言った。
「最初の一曲の相手は、婚約者候補と見なされる。その相手が、建国祭の会場の真ん中で足を押さえてうずくまっていたら、どうなると思う」
「ええと、お見舞いの花束が届きます」
「届くのは苦情だ」
王子の身体は、ナナリーの身体よりずっと重い。その重さで踏まれた足がどうなるか、想像しかけて、ナナリーはそっと自分の靴先を引っ込めた。
ジョルジュが、ようやく頭を抱えていた手を下ろした。こめかみを一度押さえてから背筋を伸ばすと、疲れた顔に、魔術師らしい真剣な表情が戻ってくる。
「それなら、なおさら急がなければなりません。ちょうど、お伝えしたいことが二つあります」
兄はインクの染みたページを一枚めくり、上着の内側から封筒を取り出した。ナナリーもソファへ座り直す。兄が調査の話を始める時は、きちんと聞かなければならない。分からないまま頷いてしまうと、後で自分が困る。そのことだけは、ここ数日でようやく身に染みていた。
「一つ目は、例の瓶の鑑定結果です。中身は、規定をはるかに超えた濃度の媚薬でした。一方で、ロザリー嬢の見舞いの花束に残っていた香りは、規定内の、ごく普通の香水です」
ナナリーは、思わず胸を押さえた。
「じゃあ、あの時、私が息を止めていたのは」
「まったく必要なかったということだ」
「酸欠になりかけたのに」
花束へ顔を寄せないようにして呼吸を浅くし、そのうえ王子の笑顔まで保とうとした努力が、まとめて無駄になった。乙女の秘密ですわ、と微笑まれたあの香りの正体が、ただの香水だったとは。秘密というものは、中身が普通でも、包み方次第で人を酸欠にできるらしい。
「瓶の出どころは、引き続き追っています。こちらは、もう少し時間がかかりそうです」
ジョルジュは手帳を閉じ、封筒をテーブルの中央へ置いた。黒い封蝋には、銀色の線で奇妙な紋章が描かれている。ナナリーは、その形にどこか見覚えがある気がして、少し身を乗り出した。
「二つ目は、こちらです。今朝、王立魔術博物館に届きました」
シノンが封筒を取り上げ、中から厚手の紙を引き出した。横から覗き込むと、流れるような筆跡で、短い文章が綴られている。
――来たる新月の夜、古代魔術展にて、時の眠りにつく叡智をいただきに参上する。闇の魔術師シルヴァン。
「本物の予告状だわ」
ナナリーは、署名をもう一度読んだ。闇の魔術師シルヴァン。最近、王都を騒がせている怪盗の名だ。古い魔術に関係する品を盗んでは、捕まえに来た騎士や魔術師を煙に巻く。新聞でその話を読んだ時には、まるで小説の登場人物のようで少し格好いいとさえ思った。けれど今は、そんなことを言っていられない。召喚書の原本の盗難についても、その男に疑いが向けられているのだ。
「来週から、博物館で古代魔術の特別展示が始まります。狙いは、おそらく、そこに並ぶ伝説の魔術師ヤン・ミュラーにゆかりのある魔術書か魔道具でしょう」
ジョルジュが、予告状へ目を落とした。
「僕は展示品の確認と、現地の下見をしておきたいと思っています」
「俺も当日は現場にいたい」
「私も!」
すかさず手をあげる。
怪盗が犯行予告をした現場に立ち会えるなんて、人生に何度もある経験ではない。是非とも参加したかった。
「そうだな……この状態だと、全くの部外者である俺だけが参加するのは不可能だろう。王子である君が調査協力として博物館を訪れる。その付添いなら可能か」
シノンが顎に手を当て、軽く思考を巡らせるように視線を落とした。
「僕は明日、博物館の館長に連絡を入れて夜間に視察できるよう手配しておきます。陛下が殿下とナナリーの仲を誤解されているなら、お二人が一緒に博物館へ出掛けても、不自然には見えないでしょうし」
ナナリーの胸が、どくんと鳴った。
殿下と自分の仲を誤解されている。そのことを改めて口にされると、どうにも落ち着かない。しかも、その誤解を利用して二人で出かけることになるらしい。
もっとも、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
居場所も分からなかった怪盗が、自分から現れる場所と日を知らせてきたのだ。彼を捕まえられれば、原本の行方が分かるかもしれない。欠けたページを調べ、終了の術式を覚えるところまで、ようやく道がつながりそうだった。
一か月という期限を聞いてから、ずっと背中を押されるような息苦しさがあったが、それがほんの少し和らいだ。
ところが、予告状を見つめていたシノンが、ふと眉を寄せた。
「あの本を出してくれ」
シノンの視線を受けて、ジョルジュが足元の鞄から召喚書を取り出した。シノンは予告状の署名の横に描かれた小さな紋章へ指を置き、それから本の表紙へ視線を移す。
色褪せた革の中央に刻まれた、かすれた金箔の魔術陣。古書店の棚の前で、ナナリーが「何となく格好いい」という理由だけで眺め、そのまま買ってしまった模様だった。シノンが本と予告状を並べると、斜めに差し込む夕日が、消えかけた金の線を照らし出した。
ナナリーも、二つの模様を見比べた。外側の輪の形も、中央を横切る線も、その端にある小さな曲がり方まで、同じだった。
本へ伸ばしかけた手を止め、ナナリーは予告状の署名を見つめた。闇の魔術師シルヴァン。その名前が、先ほどよりずっと近くにあるように感じられた。




