37 最後の一文が、言えません
良い知らせを四つも並べれば、その勢いで最後まで言える。昨夜のナナリーはそう計算していたが、残念ながらその計算は帝王学の問題よりも見事に外れた。
「それで、陛下が何だ?」
シノンに促され、ナナリーは勢いだけで口を開いた。
「陛下が、とてもお元気でした」
シノンの目が、すっと細くなった。自分の丸い目がここまで鋭くなるとは、鏡の前では一度も気づかなかった。
「それは知っている。父上は、いつでも元気だ」
「ですよね。あと、ヘンリエッタ殿下の真珠の髪飾りが、とても素敵でした。それから、小食堂の花飾りがイリスで」
「ナナリー」
ジョルジュの声が低くなった。ほかの人なら聞き逃すほどの、微かな変化かもしれない。けれど、兄がこの声を出す時は、大抵、ナナリーが何かを隠していると見抜いている時だった。
「お前がそうやって話をあちこちへ飛ばす時は、決まって、どこかに菓子の包み紙を隠している」
「今回は、包み紙じゃないけどね」
「包み紙じゃない何かは、隠しているんだな」
しまったと思った時には、遅かった。兄の尋問には、幼い頃からの積み重ねがある。妹の受け答えに限れば、魔術師団の誰より詳しいかもしれない。手帳の上で止まっていたペン先が、すっと持ち上がった。
「もう一度聞く。陛下が、どうした」
「陛下が……お夕食の席で……私に……つまりシノン殿下に、ナナリー嬢をどう思っているのかって」
シノンが、組んでいた腕をほどいた。膝の上に置かれた手は、令嬢らしく揃っているのに、指先にだけ妙な力がこもっている。
「それで、何と答えた」
「最初は、親しくしています、と。殿下が私と頻繁に会っている理由と、そこへお兄様が付き添っている理由を説明しないと、お兄様が処分されそうだったので」
「それは、まあ、仕方がない。俺たちのせいでジョルジュが降格なんて、笑えないからな」
「次に、勉強を教えているだけです、と」
「事実だな」
「それから、会うと安心します、と」
シノンの眉が、わずかに動いた。事実かどうかを判定する声が、そこで途切れる。
「それから?」
ナナリーはカップを両手で包み込んだ。手のひらが汗ばんで、陶器の上で少し滑る。自分の心臓の音で、紅茶の水面まで揺れているような気がした。
「王妃様に、それは好きということではないの、と聞かれて」
「聞かれて」
「好き、かも? と」
シノンもジョルジュも黙った。窓の外の小鳥まで、ちょうど鳴くのをやめている。
ジョルジュのペン先から、インクが一滴、手帳の上にぽたりと落ちた。その小さな音が、ナナリーにはひどく大きく聞こえた。
「疑問形で言ったんです。ちゃんと、分かりやすく語尾を上げて。でも陛下は、疑問として受け取ってくださらなくて。ようやくお前にも将来の伴侶候補ができたのだな、と。今度ぜひ招待しなさい、ともおっしゃっていました」
シノンは、ソファの上で固まっていた。瞬きまで少なくなり、ナナリーの顔をした彫像が、そこに一体置かれているようだった。その隣で、ジョルジュがゆっくりと頭を抱えている。
「待て。待ってくれ。整理させてくれ」
兄は片手を下ろし、複雑な術式を解きほぐすように、指を一本ずつ折り始めた。
「僕の降格は、免れた」
「そうよ」
「そのために、お前は説明してくれた。王妃殿下も助けてくださる。ありがとう」
「どういたしまして」
「そして、お前は、陛下の前で、殿下の身体で、自分のことを好きかもしれないと言った」
「そういうことになるわね」
「その結果、陛下の中で、僕の妹が、王子殿下の伴侶候補になった」
「大正解! さすがお兄様、今日も冴えてるわね」
ジョルジュは天井を仰いだ。礼を言うべきか叱るべきか、喜ぶべきか嘆くべきか。兄の表情は、そのどれか一つに落ち着けないようだった。ナナリーとしても、感謝だけを受け取って話を終えられればよかったのだが、そうはいきそうにない。
「魔術師団の件はありがとう。本当に感謝している。だが、お前は何をしてくれたんだ。いや、本当にありがとう。だが、母上に知られたらどうする。今度こそ卒倒して、三日は起き上がらないぞ。喜びすぎて」
「お兄様、さっきから同じことを言ってる」
「同じことしか言えない状況なんだよ!」
ジョルジュの叫びで、ようやくシノンが息を吐いた。彼はまずナナリーを見て、それからテーブルの焼き菓子へ視線を落とし、最後にもう一度、こちらを見た。
「グリンピースは、何粒食べたんだ」
「そこですか?」
「そこから受け止めないと、残りが入ってこない」
シノンは片手で顔を覆い、指の隙間から、恨めしそうにこちらを見た。耳まで赤くなっているのは、怒りのせいなのか、それ以外のせいなのか。自分の身体なのに、外から眺めても判断がつかなかった。
「君は、俺の身体で、俺の父親に、君自身を好きかもしれないと言ったんだな」
「改めて並べられると、ものすごく変な話ですね」
「変な話だと思うなら、言う前に気づいてくれ」
「その時は、それが一番安全な答えに見えたんです。王族の皆様から揃って質問されて、こっちも必死だったんです」
見た目こそ王子だが、ナナリーは、生まれた時から王族だったわけではない。地味という言葉を「堅実」と言い換える、おおらかな父の娘だ。
そもそも、ドラクロワ家の領地は王都から遠い湖水地方にあり、なだらかな丘では羊がのんびりと草を食んでいる。特産品は羊毛と塩漬けの魚、それから素朴な風味のハーブチーズだった。
食卓の話題といえば、今年の羊毛の出来や、魚の水揚げや、ジョルジュがチーズを食べすぎて母に叱られた話くらいしかない。
国王に問い詰められた時の答え方など、誰からも教わっていない状況だったのだ。
「湖のほとりで羊の数を数えて育ち、兄がチーズを食べ過ぎて叱られたことくらいしか覚えていない、素朴な人間に、高度な駆け引きは酷です。好きかもしれない、の一言でその場を乗り切れたなら、むしろ大手柄だと思います」
「君は初等科から王都の学院にいるじゃないか。それに、その大手柄のせいで、俺の知らないところで伴侶候補が決まったんだが?」
横でジョルジュが「チーズの件は余計だ」と、小さく呟いた。シノンは長く息を吐き、ソファの背へ深く身を預けた。
ナナリーは、反論しかけて口を閉じた。その指摘は、もっともだった。王家の夕食を無事に終えることに夢中で、その後のシノンの立場まで、十分に考えられなかった。
シノンの顔で彼の気持ちを口にすれば、他の人からは彼の言葉だと思われる。それは、彼の気持ちを勝手に作り変えてしまったことになる。
ナナリーは、自分が口にしたことの大きさを、今初めて気付いた。
「ごめんなさい。殿下のことなのに、勝手に答えてしまいました」
シノンは少し黙ってこちらを見ていたが、やがて、顔を覆っていた手を下ろした。
「分かった。父上の中では、そういうことになっているんだな。それなら、今は、その誤解を利用させてもらう」
「利用、ですか」
「俺たちが頻繁に会っていても、不思議に思われない理由になる。母上の行儀見習いの話とも噛み合う」
理屈としては、たいへん筋が通っていた。叱られ続けずに済んだのだから、安心してよいはずだった。それなのに、利用するという言葉が少しだけ冷たく聞こえた。
だが、自分から話を大きくしておいて、都合のよい理由として扱われるのが気になるなんて、勝手な話だ。
ナナリーは、その引っかかりを確かめる前に、焼き菓子を一つ口へ運んだ。楽しみにしていた一つ目は、思っていたより甘くなかった。




