36 まずは、良い知らせから
翌日の放課後、王城へ戻ったナナリーは、家庭教師の待つ書斎には寄らず、まっすぐ王子の部屋へ帰ることができた。たったそれだけのことなのに、足取りが羽のように軽い。
窓からは傾きかけた日が差し込み、絨毯の上に長い光の帯を描いている。テーブルには、エルネットが用意してくれた紅茶と、小ぶりな焼き菓子が並んでいた。数えると、七つ。三人で分けると一つ余る数で、その一つの行き先は、ナナリーの中ではとっくに決まっている。
昨日のこの時間には、不作の年の穀物の流通について家庭教師に問い詰められ、その後は訓練場で、熊のような騎士団長に腰の使い方を叱られていた。それを思えば、目の前の光景は夢のようだった。
窓の外で鳴く小鳥の声まで、心なしか自分を祝福してくれている気がする。
ただし、向かいのソファに並んで座る二人は、祝福とはほど遠い顔をしていた。
「家庭教師の時間は、どうした」
ナナリーの姿をしたシノンが、腕を組んで尋ねた。今日も学院で完璧な令嬢を演じてきたのだろう。編み込まれた髪には一筋の乱れもないのに、眉間にだけ見慣れた王子の皺が寄っている。
「今日はお休みです」
「剣術は」
「それも、お休みです」
シノンの目が細くなった。自分の顔なのに、睨まれると妙に迫力がある。見慣れた丸顔だから怖くないと思っていた少し前の自分を、ナナリーは心の中でそっと訂正した。
「まさか、再開して一日で、何かやらかしたんじゃないだろうな」
「やらかしてません。たぶん」
「たぶん?」
シノンの隣に座るジョルジュも、聞き逃さなかった。仕事帰りにそのまま来たらしく、魔術師団の黒い制服の襟元を少しだけ緩めている。妹の「たぶん」を聞いた瞬間、焼き菓子へ伸びかけていた兄の手は、ぴたりと止まった。長年の経験で、何かを嗅ぎつけたらしい。
ナナリーは紅茶を一口飲み、背筋を伸ばした。昨夜、寝台の中で何度も練習した順番がある。良い知らせから並べていけば、最後の一文が届く頃には、二人の機嫌もそれなりに上向いている予定だった。
もちろん、予定は予定だ。昨日も、夕食を食べて部屋へ戻るだけのつもりが、国王の前で自分を婚約者候補に仕立てることになった。今日くらいは、もう少し穏やかに話が進んでほしい。
「では、良い知らせから順番に報告します」
「悪い知らせもあるんだな」
シノンの指摘は、聞こえなかったことにした。ナナリーは人差し指を一本立てた。
「まず一つ目。お兄様の降格は、免れました」
「降格?」
ジョルジュの声が、見事に裏返った。
「僕は、降格されかけていたのか?」
「昨日の夕食の席で、陛下がおっしゃったの。お兄様がよからぬことを企んでいるのではないかと、師団長が心配しているって。私用で勝手な行動を続けるなら、処分も考えると」
ジョルジュの顔から、さっと血の気が引いた。背もたれから身体を起こし、ナナリーを見つめたまま口を閉じている。自分の知らないところで処分の話が持ち上がり、知らないところで回避されていたのだ。喜ぶか驚くか、どちらを先にすればいいのか分からないのだろう。
家では口うるさい兄が言葉を失っている姿は、なかなか珍しかった。
「でも大丈夫。王妃殿下が、師団長に話を通してくださることになったの。これからは、お兄様は王妃様の頼みで調べ物をしている、ということになるそうよ」
「母上が?」
今度はシノンが身を乗り出した。ナナリーは予定どおり、二本目の指を立てた。
「二つ目。一か月の間、放課後の予定を減らしていただけることになりました。落雷の影響ということで。だから今日は、家庭教師も剣術もお休みなんです」
「待て。それは、母上の判断なのか」
「三つ目が、その理由です」
三本目の指を立てる前に、ナナリーは少しだけ迷った。ここは難しいところだ。良い知らせとして受け取ってもらえるかどうかは、本人の考えを聞いてみなければ分からない。
「王妃殿下に、入れ替わりがばれました」
シノンもジョルジュも、そろって動きを止めた。部屋の空気は一瞬で固まったのに、窓の外の小鳥だけは、相変わらず機嫌よく鳴いている。空気を読まない小鳥のようだ。
「ばれた?」
「はい。昨夜、お夕食の後にお部屋へ呼ばれて、座ってちょうだい、ナナリー、と」
「最初から、君の名前でか」
「ええ。最初から名前で」
シノンは額に手を当て、深いため息をついた。ナナリーの身体でため息をつくと、肩までしゅんと下がる。その姿を見ていると、自分が今、どれほど厄介な報告をしているのか、嫌でも分かった。
「何で気づかれたんだ」
「いくつかあるそうです。たとえば、ナナリーが、初めて通るはずの廊下を迷わず殿下のお部屋へ向かっていた、とか」
シノンの肩が、ぴくりと動いた。本人にも心当たりがあるらしい。こちらの失敗だけではなかったと分かり、少しだけ勇気が出た。
「それから、私が言い訳を丁寧に並べすぎた、とか。あと、グリンピースを」
「グリンピース?」
「食べました」
シノンの顔から、一度、表情がすっかり抜け落ちた。それから、ゆっくりと眉が寄り、唇が薄く結ばれていく。豆を食べたというだけで、自分の顔がこれほど絶望的な表情を作れるとは知らなかった。試験の結果が貼り出された日の自分でも、ここまでではなかったと思う。
「俺の身体で、グリンピースを」
「甘くて美味しかったです」
「美味しいかどうかは聞いていない」
ナナリーは口を閉じた。身体を借りている以上、本人の嫌いなものにも気を遣うべきだったのかもしれない。ただ、兄は「妹の行動一覧」をシノンに渡したのに、殿下の好き嫌いの一覧は、こちらに一枚も回ってきていない。少し不公平ではないだろうか。
ジョルジュが、二人の顔を交互に見ながら口を挟んだ。
「殿下。グリンピースより、王妃様に知られたことの方が問題では?」
「いや。母上なら、むしろ助かる。家族で気づくなら、母上が一番だろうとは思っていたし」
シノンは額から手を下ろし、少しだけ表情を緩めた。
「父上には?」
「王妃殿下がまだ知らせない、と。知らせたら、大勢の魔術師を呼び集めてしまうからって」
「正しい判断だ。父上なら、城中の魔術師を叩き起こして、戻す方法が見つかるまで帰さないと言いかねない。ジョルジュも、間違いなく呼ばれるだろうな」
「王命とあれば、お力添えはいたしますが。できれば、眠る時間くらいはいただきたいですね」
ジョルジュが苦笑するのを見て、国王の印象は、妻から見ても息子から見ても、そう変わらないらしいとナナリーは思った。王妃の言葉をそのまま伝えても、悪口にならずに済んだようだ。ナナリーは胸を撫で下ろし、四本目の指を立てた。
「四つ目。王妃殿下が、ナナリーを、つまり今の殿下を、行儀見習いとしてお預かりすると提案してくださいました。そうすれば、殿下は王城の客室で暮らせます。毎回お屋敷から通わなくて済むし、召喚書の調査も、ずっと捗ると思うんです」
ジョルジュとシノンが顔を見合わせた。
「行儀見習いなら、毎回僕が付き添う口実を作らなくて済むわけか」
「母上の名前があれば、ドラクロワ家も断りにくいだろう」
「うちの母は断りません。むしろ卒倒します。もちろん、喜びの方で」
ジョルジュが真顔で付け足した。
ナナリーの頭の中に、母が布の見本帳を抱えて屋敷中を走り回る姿が、たいへん鮮やかに浮かんだ。王妃の行儀見習いになるなら、今あるドレスでは足りないと言い出すに違いない。仕立て屋が呼ばれ、採寸が始まり、仮縫いのたびに何時間も立たされる。しかも、その身体の中にいるのは自分ではなくシノンなのだ。母の情熱を一番近くで浴びるのは何も知らない王子だと気づき、ナナリーは少し申し訳なくなった。
「すぐにはお返事せず、殿下とお兄様に相談してからと答えました。今日はこのあと、三人で伺うことになっています」
シノンが、意外そうに眉を上げた。
「即答しなかったのか」
「分からない時は、確認すると言えばいい。殿下とお兄様に、そう教わったので」
シノンは一瞬黙り、それから小さく咳払いをした。先ほどまで眉間に寄っていた皺が、少し浅くなっている。
「悪くない判断だ」
「ありがとうございます」
素直に礼を言いながら、ナナリーは膝の上で小さく拳を握った。褒められると、思っていたより嬉しいものだ。
ここまでは、うまくいっている。降格の心配がなくなり、調査の時間が増え、王妃が味方になり、会う口実までできた。途中でグリンピースの件を責められはしたものの、二人の顔は最初よりずいぶん穏やかになっていた。シノンは紅茶へ手を伸ばし、ジョルジュもようやく焼き菓子を一つつまんで、背もたれへ身体を預けている。
悪い知らせを伝えるなら、今しかない。
ナナリーはカップを置き、深く息を吸った。
「それで、最後に、もう一つだけ」
「悪い知らせか」
「悪い、というか、その、陛下が」
言いかけたところで、喉の奥に言葉がつかえた。昨夜、何度も頭の中で繰り返した一文が、いざ本人を前にすると、どうしても口から出てこない。紅茶で流し込めば出てくるものでもなさそうだった。むしろ、紅茶の方が喉で迷子になりそうだ。
シノンとジョルジュが、一斉にこちらを見た。
真剣な眼差しを向けてくる自分の顔と目が合い、ナナリーはつい余計なことを考えてしまった。真面目な顔をすると、自分の顔も案外賢そうに見える。授業中にこの表情をしていれば、先生からもう少し期待されていたのだろうか。
そんな現実逃避は、シノンの眉間に再び皺が寄ったところで打ち切られた。
「歯切れが悪いな。怪しい」
「ナナリー。早く言いなさい。陛下と、一体何を話したんだ」
声を荒らげられたわけではない。それなのに、二人分の視線を浴びると、ソファの背もたれへ身体ごと押しつけられるような気がした。心臓の音がやけにうるさく、組んだ指先は冷たい。
ジョルジュが、つまんでいた焼き菓子を皿に戻した。代わりに上着の内側から手帳を取り出し、無言でページをめくる。妹が何かをやらかした時、兄はいつもこうして記録を取る構えに入るのだ。ペン先は紙の上でぴたりと止まり、ナナリーの次の言葉を待っていた。
ナナリーは膝の上で指を組み直した。良い知らせを四つ並べても、最後の一つが軽くなるわけではない。むしろ、持ち上げた分だけ落ちる高さが増えている。練習した報告の順番に、そんな重大な欠点があったことを、今になって思い知った。
皿の上の焼き菓子は、まだ七つとも残っている。言い終えた後、これを食べられる空気がこの部屋に残っているかどうか、ナナリーにはまるで自信がなかった。




