35 婚約者探しにも、予算がある
一か月。壁際の時計が、こつりと時を刻んだ。まるで今この瞬間に、砂時計の最初の一粒が落ちたようだった。
「もし、それまでに元に戻れなかったら」
「あなたに頑張ってもらうしかないわ」
「頑張る、とは?」
声が少し上ずった。ナナリーは咳払いをしてから、できるだけ落ち着いて続きを口にした。
「元に戻る努力はします。ただ、万が一のことも考えておくべきだと思いまして」
ソフィアはカップへ口をつけ、ゆっくり戻した。
「息子のお相手になるかもしれないと、皆さんを待たせている状況なのは、知っているわよね?」
「はい」
神妙に頷きながら、母が食卓で話していた縁談の事情を思い出す。年頃の令嬢を持つ家の中には、王子の決定を待つと言いながら、候補から外れた場合の話も水面下で進めているところがあるらしい。王妃も、そうした事情を知らないわけではないのだろう。
「お相手を探すためのお茶会も、舞踏会も、お招きするお嬢様たちのお支度も。すべて、ただではないの。何より、皆さんに、いつまでも予定を空けていただくわけにはいかないでしょう」
ソフィアは、困ったように微笑んだ。
「婚約者探しにも、予算があるのよ」
国王と王妃は恋愛結婚だ。だから王子の結婚相手も、好きになればそこから話がまとまるものだと思っていた。まさか穀物の流通を学んだ日の最後に、婚約者選びにも経費がかかると、王妃自らに教えていただくことになるとは思わなかった。
けれど、言われてみれば当然だった。夜会へ出るだけでもお金はかかる。
ナナリーの母も、新しいドレスや靴を用意する時には、必ず父へ相談していた。普段は領地に住んでいる令嬢なら、移動費や滞在費まで必要になる。王都に長く留まるほど、負担が増えるのも確かだ。
王家にも招く側の支出があり、いつまで延びるか分からない催しに、いくらでも予算を使えるわけではないらしい。甘い恋の話だと思っていたものの奥から、急に分厚い帳簿が顔を覗かせた気がした。
「だから、建国祭の舞踏会が、一つの締めくくりなの。その日、シノンが最初の一曲を踊ったお相手は、有力な婚約者候補として受け止められることになるわ」
ソフィアは、優しくも揺るがない眼差しでナナリーを見た。
「もし一か月経っても元に戻っていなかったら、あなたがシノンとして、その方をエスコートして踊るのよ」
「ダンス、ですか」
伯爵令嬢として育てられたのだから、ナナリーもダンスが全く踊れないわけではない。相手に合わせて足を運ぶくらいなら、何とかなる。ただし、今度は自分が相手を導く側だ。シノンの身体で、豪華なドレスを着た令嬢の手を取り、国中の注目を浴びながら、最初の一曲を踊り切らなければならない。
授業中なら机の下にメモを隠せる。しかし舞踏会では、足元に歩き方を書いた紙を置くわけにもいかない。相手の裾を踏み、つまずき、王子と令嬢が揃って床へ倒れるところまで、容易に想像できた。
シャンデリアの下で大の字になった王子の姿は、きっと後世の歴史書にまで載るだろう。シノンの社会的信用だけでなく、王家の尊厳まで巻き込んでしまいそうだった。
「ダンスの特訓のために、先生を増やしておきましょうか?」
「い、いえ! それまでに、何としてでも元に戻れるよう、努力しますので!」
ナナリーは必死に首を振った。今日一日だけでも、授業は十分すぎるほど受けた。その上、王子としてのダンスまで追加されたら、寝台へ戻る前にどこかの椅子で眠ってしまう。
「では、まずは調査を急ぎましょうね」
ソフィアは、楽しそうに笑った。
「それと、今日の話が陛下の中で進みすぎないよう、私も気をつけるけれど、あなたもこれ以上は、余計なお約束を増やさない方がいいわ」
「はい。もう何も、誰とも約束しません」
切実に答えると、王妃が小さく笑った。こちらは真剣なのだが、その真剣さまで面白がられている気がする。秘密を知った王妃というものは、もっと深刻な顔をするものだと思っていた。どうやらこの方は、深刻な事態を、少しだけ楽しむ余裕をお持ちらしい。
「会う時の口実も、考えましょう。毎回ジョルジュを付き添わせるのでは、彼の仕事が増えるばかりだもの」
「はい」
ジョルジュのことを、何から何まで好きなわけではない。けれど、兄の足を引っ張りたいわけでも、迷惑をかけたいわけでもなかった。
魔術師団へ入ることを子どもの頃から目標にしていたのも、そのために努力を惜しまなかったのも、ずっとそばで見てきた。これ以上、自分の不始末で、兄が積み重ねてきたものを削らせたくはない。
「そうね。ドラクロワ嬢を、私の行儀見習いとしてお預かりするのはどうかしら。もちろん、学院生活を優先して」
「でも、シノン殿下は……今は私ですけれど、放課後もお忙しいですよね?」
口に出すと、相変わらず説明がややこしかった。今日一日を振り返れば、シノンがナナリーの姿で王城へ通えるようになっても、肝心の自分が講義や訓練を受けていては、ゆっくり召喚術を調べられない。
「ええ。そちらも調整が必要ね。落雷の影響を理由にして、一か月は、放課後の予定を減らしましょう」
ナナリーは、カップを置いた。
それなら、二人で術式を調べる時間が増える。空いた時間に翌日の予習もできれば、シノンが回答集を用意する手間も、少しは減らせるかもしれない。
王妃の提案に頷きかけて、ナナリーは、自分の母がその話を聞いた時の顔を思い浮かべた。
落雷の後、急に礼儀正しくなった娘が、王妃の行儀見習いになる。きっと、たいへん喜ぶ。喜んだ勢いで、知り合い全員へ話すかもしれない。元に戻った後、何人から王妃様のもとで学んだ作法を期待されるのだろう。考えただけで、膝の曲げ方が分からなくなりそうだった。
それでも、今は背に腹は代えられない。シノンも、本来すべきことを後回しにするのだ。自分だけ、後で困るからと断るわけにはいかなかった。
「殿下と、お兄様にも相談してからでよろしいでしょうか」
今回は即答を避けた。自分の判断だけで話を進めて後から困ることは、もう十分に経験している。分からない時は、確認すると言えばいい。シノンに教わったことが、初めて自分の口から自然に出た。
「もちろん。明日、三人でいらっしゃい」
ソフィアは、そこで少し声を落とした。
「あなたが、あの子を好きかもしれないと言ったことも、ちゃんと伝えておくのよ」
「それは、話の流れで」
「ええ。その流れも含めて、ね。陛下は、息子の言葉として聞いているのだから」
ナナリーは、紅茶のカップを両手で持ち直した。熱は少し引いていたが、冷えかけた指先には、まだ温かさが伝わってくる。
秘密の味方はできた。兄の信用も守られ、調査の時間まで増えそうだ。それなのに、明日の報告を考えると、肩の力は少しも抜けなかった。
まず、王妃様が事情を知りましたと伝えよう。次に、ジョルジュの調査は続けられることと、放課後の予定を減らしてもらえること。そこまでなら、シノンも喜んでくれるはずだ。期限が一か月だということは、その後に、少しだけ申し訳なさそうな顔で付け加えればいい。
ナナリーはそこまで順番を決めてから、カップの草花模様へ目を落とした。十二輪の花は、さっきと同じ数のまま咲いている。その先に残った最後の一文だけは、何度考え直しても、うまい言い方が見つからなかった。
国王陛下が、あなたと私の結婚に前向きになりました。ええ、私のせいで。
頭の中でそう読み上げるたび、明日のシノンの顔が、どんどん険しくなっていった。




