34 グリンピースは、嘘をつかない
夕食が終わった時、ナナリーは、学院と書斎と訓練場と小食堂を一日で駆け抜けた者だけが知る種類の疲労に包まれていた。剣を振った腕はまだ張っていて、お腹は美味しい料理で満たされているのに、頭の中だけが空っぽの小麦袋のようにくたりとしぼんでいる。
あとは寝間着に着替え、あの暗殺道具のように寝心地のよい寝台へ横になるだけだ。シノンへの報告は、明日の自分に任せたい。今の自分より、少なくとも睡眠を取った分は賢くなっているはずだった。
王妃の呼び出しについても、国王の馴れ初め話が長引いたことで、ひょっとすると忘れていただけたのではないか。そんな淡い期待は、席を立とうとした瞬間に、穏やかな声で摘み取られた。
「シノン。約束どおり、少し付き合ってくれる?」
国王とヘンリエッタが、まだ馴れ初めの続きを話しながら先に出ていく。ナナリーは逃げそびれたまま、王妃の後について、廊下の先にある私室へ入った。
そこは、小食堂よりもずっとこぢんまりとした部屋だった。壁には柔らかな色合いの織物が掛けられ、暖炉では小さな火がぱちぱちと薪を鳴らしている。彫刻の施されたテーブルには二人分の紅茶が用意され、ランプの明かりが、窓辺に活けられた淡い色の花を優しく照らしていた。
重厚な食堂とは違い、椅子にも花瓶にも、くつろぐために選ばれたような温かみがある。部屋のどこかから、ほのかに甘い花の香りが漂っていた。
居心地のよさそうな、静かな部屋だ。けれど、ソフィアが使用人たちへ席を外すよう告げた途端、ナナリーの喉は、夕食の時よりもからからに渇いた。
甘い蜜に誘われてのこのこ花の奥まで入り込み、気づいた時には出口を塞がれていた虫も、きっとこんな気持ちだったのだろう。
紅茶の香りはたいへん魅力的なのに、扉の閉まる音だけが、妙にはっきりと耳に残った。
「そんなに緊張しなくてもいいのよ」
「はい」
「座ってちょうだい、ナナリー」
膝を曲げかけたところで、身体が止まった。
王妃は向かいの椅子へ腰を下ろし、何でもないことのように紅茶を注いでいる。白い湯気がふわりと立ち上り、ランプの明かりに溶けていった。
ナナリーは、その手元を見つめたまま、声を出すことができなかった。名前を呼ばれただけなのに、心臓が喉元までせり上がってきた気がする。
「違うかしら?」
「どうして」
ようやく出た言葉は、それだけだった。違いますと言うべきだったのかもしれないが、否定するより先に、疑問の方が口からこぼれてしまった。
ソフィアは、楽しそうに目を細めた。
「息子が、叱られる前にあれほど丁寧に言い訳を並べるのは、初めて見たもの。それに、私がお会いしたドラクロワ嬢は、初めて通るはずの廊下で、迷わず息子の部屋へ向かっていたわ。それから」
王妃は紅茶のポットを置き、こちらを見た。
「あの子はね、グリンピースを一粒も口にしないのよ。小さい頃から、どんなに細かく刻んでも見つけ出して、皿の端へ並べていたわ」
ナナリーは、フォークの先に乗っていた二粒の豆と、その後で数えた七粒の豆を思い出した。あの時、一粒ずつ何かが暴かれていく気がしたのは、気のせいではなかったらしい。
「ほかにも気になったことはあるけれど、まだ言った方がいいかしら?」
「いえ。大丈夫です」
何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。けれど、これ以上自分たちの失敗を並べていただかなくても、もう十分に身に染みていた。
ソフィアが頷いたので、ナナリーはゆっくり椅子へ腰を下ろした。あんなに完璧に見えるシノンも、ナナリーの姿で失敗していたらしい。少しだけ安心できる話ではあったが、今は呑気に安心している場合ではなかった。
「落雷の後から、二人とも様子が変わった。ジョルジュが秘密にして調べていることもある。まさかとは思ったけれど、あなたたちは、身体が入れ替わったのね?」
ナナリーは膝の上で手を揃え、頷いた。
「申し訳ございません」
「謝る前に、何が起きたのか教えてくれる?」
王妃の声は穏やかだった。
こんな時、シノンなら、もう少しうまく受け答えができるのかもしれない。けれど、ナナリーには無理そうだった。高度な授業を受け、放課後もみっちり埋まった予定をこなし、最後の気力まで夕食で使い果たしている。これ以上、辻褄の合う説明を作れる気がしなかったし、作ったところで、この方が信じてくれるとも思えない。
ナナリーは肩を落とし、自分が始めた召喚術から、あの夜の事故と、欠けた終了の術式まで、順番に話した。
媚薬と口づけについて説明する時には、繊細な草花模様が描かれたカップをじっと見つめた。口づけをした相手の母親へ、その経緯を報告するという経験はできれば一生したくなかった。せめてカップの花の数を数えている間に、その部分だけ済んでほしい。花は十二輪あった。数え終わる頃には、耳まで熱くなっていた。
ソフィアは最後まで遮らずに聞き、それから深く息を吐いた。
「私がいくら尋ねても、ジョルジュが黙っていた理由は分かったわ」
何気なく明かされた事実に、ナナリーは顔を上げた。どうやら兄は、自分の知らないところで、魔術師団からだけでなく、王妃からも事情を尋ねられていたらしい。それでも口を割らなかったのかと思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。
「あの、お兄様は、私たちを助けようとしてくださっているだけです。悪いことを企んでいるわけでは」
「ええ。ジョルジュの件は、私から師団長へ話を通しておきます。私の頼みで調べ物をしていることにすれば、細かい内容まで答えなくても済むわ」
「よろしいのですか?」
「息子を元に戻すための調査でしょう? 真実を知った以上、私からもお願いすることになるのだから、嘘にはならないもの」
胸の奥へ、ようやく温かいものが戻ってきた。ジョルジュが罰を受ける心配は、ひとまずしなくてよさそうだ。妹の不始末を隠すために兄が降格された、という最悪の事態だけは避けられる。焼き菓子の一番大きな箱を買いに走る必要もなくなった。
「陛下には、まだ知らせないでおきましょう」
「ですが」
「今話したら、心配して大勢の魔術師を呼び集めるわ。二人が静かに調べたいことも、すぐに広まってしまうでしょうね」
その光景は、簡単に想像できた。夕食の席で伴侶候補の話を聞いただけでも、あれほど身を乗り出した国王だ。息子の身体に伯爵令嬢が入っていると知れば、椅子から立ち上がるくらいでは済まないかもしれない。
「かしこまりました」
ナナリーは紅茶を一口飲んだ。温かさが喉を通って胃へ落ち、ようやく肩の力も少し抜ける。
「問題は、シノンのお相手選びだけれど」
ソフィアが、カップを受け皿へ戻した。
「少し延ばせるようにしておいた方がよさそうね。あなたに令嬢のお相手をさせるのは、忍びないもの」
「ありがとうございます」
「ただし、一か月後に予定されている、建国祭の舞踏会までよ」
再び紅茶を口へ運びかけていたナナリーの手が止まった。
「一か月後、ですか?」
「ええ。それまでには、できれば元に戻っていてほしいわね」
優しい口調だったが、ナナリーには、はっきりと期限として聞こえた。あと一か月で、盗まれた原本を見つけ、欠けた術式を調べ、それを自分で使えるようにならなければならない。紙に書き出したら、余白が足りなくなりそうな予定だった。




