33 恋をすると、グリンピースも食べられる
逢引。その華やかな響きが、銀の燭台の間をゆっくりと漂っていく。小食堂の空気が、一瞬だけ止まった気がした。
「シノンが?」
国王は娘を見て、それからこちらを見た。ソフィアは、少しも驚いた様子がない。
「まさか、ソフィアも知っていたのか?」
「ええ。あの事故を境に、二人は親しくなったのでしょう?」
王妃の問いに、ナナリーは曖昧に頷いた。
親しくなったこと自体は、間違いない。お互いの身体を心配し合い、授業について相談する仲にもなった。ただし、それは二人の身体と中身が、正しい組み合わせになっていないからだ。
「なぜ私に報告しない」
国王の声には、怒りよりも寂しさが滲んでいた。
「あなた。あまり騒ぎ立てると、まとまる話も、まとまらなくなるわ」
「そうですわ。お兄様は人気者ですもの」
ヘンリエッタが、母親へ頷いた。
「ロザリー様のように熱心な方へ、ナナリー様のことが知られてしまったら、嫌な思いをなさるかもしれません。それを心配して、今は秘密にお会いしているのでしょう?」
「シノン、そうなのか?」
違う、と言いたかった。
しかし、違うと言えば、ジョルジュが頻繁に王城へ来る理由を説明しなければならない。その先には入れ替わりがあり、未完成の召喚術があり、母から取り上げられた本をこっそり回収した自分がいる。最後に行き着く事実は、国王の大事な息子を、使い魔の候補にしてしまったということだ。
事情を知らない人へ、その事実を説明したらどうなるだろう。
国外追放という言葉が頭をよぎった。実際にどのような罰になるかは知らないが、王都の外へ出されてから、ただの事故でしたと訴えても遅い。しかも、追放される時に王子の身体のままだったら、話はいっそう複雑になる。追放されたのは王子なのか、伯爵令嬢なのか。門番もさぞ困るだろう。
そこまで考えたところで、ナナリーの気持ちは、全力で誤解に乗る方向へ傾いた。
「ええ。ナナリー嬢とは、親しくしています」
国王が身を乗り出したので、慌てて続きを足した。
「でも、やましい関係ではありません。健全に、明るい場所で、侍女もいる状況で、勉強を教えてあげているだけです」
少し条件を盛りすぎた気がするが、嘘ではない。シノンはナナリーへ勉強を教えている。明るいサロンで、エルネットが近くにいることも多い。
主語と身体の持ち主さえ詳しく確認されなければ、十分に真実だった。
危険を回避した手応えに、ナナリーは心の中で小さく拳を突き上げた。
「あら。勉強を教えるために、ジョルジュまで魔術師団で調べ物をする必要があるの?」
ソフィアの問いに、突き上げた拳はすぐに下りた。
「難しいところが、ありまして」
「まあ。そうなの」
王妃は微笑んだ。それ以上は聞かなかったが、すんなり納得してくれたようには見えない。
自分の母も、似たような顔をすることがある。すでに菓子の隠し場所を知っているのに、今日は何を食べたのかと優しく尋ねてくる時だ。こちらが余計なことを言うまで、待つつもりなのかもしれない。
聞かれないことが、今はかえって落ち着かなかった。
「ナナリー様って、とても感じのよい方ですわよ」
ヘンリエッタが、楽しそうに話し始めた。
「先日、廊下でお会いした時にも、私の授業のお話を聞いてくださったの。お兄様と同じ学院に通っていらっしゃるだけあって、魔術にもお詳しいのね」
いつの間に、妹と話していたのだろう。ナナリーにとっては初耳だった。自分の姿で、自分には到底答えられないような質問へ、すらすら答えた可能性が高いことだけは分かる。
「私も、お庭へ出るところでお会いしたわ。とても綺麗なお辞儀をなさったの」
ソフィアまで、好意的な声で続けた。
「お母様もそう思われた? 控えめだけれど、よく気がつく方よね」
控えめで、よく気がつく。今すぐこの食卓へ本物のシノンを呼び、評判を作り替えないでほしいと訴えたかった。自分がお辞儀をするところを母が見れば、もう少し膝を曲げなさいと小言を飛ばすはずだ。このままでは、元に戻った後、王家の期待に応えられる気がしない。
「それで、お兄様は、ナナリー様をどう思っていらっしゃるの?」
「どう、とは」
掠れた声が出て、ナナリーは慌てて水のグラスへ手を伸ばした。
「お好きなの?」
ヘンリエッタから真っすぐな問いが飛んできて、思わず背筋が伸びる。水を一口飲んでみたが、返事を考える時間は、それほど稼げなかった。
勉強を教えるために会っている。真実を口にしたのだから、それで終わっていただきたかったのに、三人とも、まだこちらを見ている。
「よい方だとは思っています」
自分を褒めたのではない。今、ナナリーとして王城を訪れているシノンについて述べただけだ。
「よい方なら、ほかにも大勢いるわ」
ソフィアが、優しく逃げ道を塞いだ。
「お兄様は、その方に会うと、嬉しい?」
ヘンリエッタも、無邪気に追い詰めてくる。
嬉しいかどうかで言ったら、嬉しい。分からない術式について聞けるし、明日の授業の相談もできる。何より、同じことを経験している相手と話すと、一人で王子を演じている時の息苦しさが、少しだけ和らぐ。けれど、その理由まで話すわけにはいかない。
黙っていても三人の視線は外れず、ナナリーは答えられる部分だけを慎重に選んだ。
「会えると、安心はします」
「まあ」
ヘンリエッタの目が輝いた。国王まで、満足そうに頷いている。嘘をつかないようにしたはずなのに、何か大きく間違えた気がした。
「それは、好きだということではないの?」
ソフィアが、念を押すように尋ねてきた。
「好き、かも?」
口にした直後、今の言葉を取り戻したくなった。疑問形にしたつもりだったが、国王は疑問として受け取ってくれなかったようだ。
「そうか。ようやく、お前にも将来の伴侶候補ができたのだな」
国王の顔が、ぱっと明るくなった。先ほどまでの威厳はどこへ行ったのか、すっかり息子の恋を喜ぶ父親の顔になっている。
「今度、ぜひ招待しなさい。私も、きちんと話してみたい」
「お父様、それではナナリー様が緊張してしまいますわ」
「何も、すぐ結婚させようと言っているわけではない。私とソフィアも、最初は互いを知るところから始まったのだからな」
「あなたの場合、知る前から、随分決めつけていらしたけれど」
「そうだったか?」
国王と王妃が、懐かしそうに顔を見合わせた。そこから二人の馴れ初めが始まり、ヘンリエッタは何度も聞いたことがあるらしく、楽しそうに相槌を打っている。
ナナリーは、その隙にひたすら目の前の料理を口へ運んだ。ようやく自分が何も言わなくてよくなったのだから、この機会を逃すわけにはいかない。
焼いた肉はナイフを入れただけでほろりとほどけ、付け合わせの野菜は驚くほど甘かった。人生が窮地へ向かっている時でも、王城の食事は変わらず美味しい。そこだけは心からありがたかった。
それにしても、どうしてこうなったのだろう。
経緯は分かっている。兄を守ろうとした結果、親しくしていると言い、安心すると言い、最後には好きかもしれないとまで口にした。どの返事も、その時はほかの答えより安全に思えたのだ。
問題は、これをどう報告すれば、シノンに叱られずに済むかだった。国王が、あなたと私の結婚に前向きになりました。頭の中で一度伝えてみたが、その一文だけでも十分に叱られそうだった。最初にジョルジュが処分されかけた件から話せば、多少は事情を酌んでもらえるだろうか。
「あら、お兄様」
ヘンリエッタの声に顔を上げると、彼女はこちらの皿を見ていた。
「今日は、グリンピースを召し上がっているのね」
ナナリーはフォークの先を見た。小さな緑の粒が、まだ二つ乗っている。
「あれほどお嫌いだったのに。恋をすると、グリンピースも食べられるようになるのかしら」
素晴らしく愛らしい笑みに、ナナリーの背筋が凍る。
今さら皿へ戻すのもおかしい。意を決して口へ入れた豆は、ちゃんと甘かった。グリンピースに罪はない。ただ、王子のふりをしている自分が食べてよいものだったかどうかは、まったく別の問題だった。
ナナリーが飲み込むまで、ヘンリエッタは嬉しそうに見ていた。その向こうで、ソフィアが静かにグラスを置いた。王妃はもう、国王の思い出話を聞いていなかった。微笑みを浮かべたまま、まるで答え合わせでもするように、こちらを見ている。
ナナリーは皿へ目を落とし、残っている豆を数えた。七つ。シャンデリアの魔石灯を数えていた頃は、数え終えたところで何も起きなかったのに、今は一粒ごとに、何かが確実に暴かれていく気がする。手のひらの汗で、フォークが少し滑った。
「シノン」
穏やかな声に、ナナリーは顔を上げた。
ソフィアは変わらず微笑んでいた。国王とヘンリエッタは、まだ馴れ初めの続きで盛り上がっている。王妃の声は、その賑やかさの下をくぐるように、まっすぐこちらへ届いた。
「お夕食の後、少しだけ、私の部屋へ来てくれるかしら」




