32 王家の食卓は、学院より手強い
小食堂へ向かう廊下は、昼間よりずっと長く感じられた。
壁の燭台に灯された火が、磨かれた床へ点々と光を落としている。その光を一つ通り過ぎるたびに、食卓が近づいてくる。空腹のせいなのか緊張のせいなのか、お腹の奥がきゅうと縮み、ナナリーは無意識に上着の裾を握りしめていた。
「ご家族揃ってのお夕食は、本当に久しぶりでございます」
途中から付き添ってくれたエルネットが、歩調を合わせながら説明してくれた。
学院が休みの時期は、社交シーズンでもある。国王と王妃、それから療養中のシノンに代わって社交の場へ出ていた王女ヘンリエッタは、夜会や他国からの賓客への対応で、連日忙しくしていたという。
シノンの体調を気遣う伝言や見舞いの品は届いても、家族が揃って顔を合わせる時間は、ほとんどなかったらしい。
ナナリーは、それを申し訳なく思う一方で、内心ではひどく助かっていた。学院の先生が相手なら、回答集とギュスターがいる。使用人たちの前では、エルネットが何とかしてくれる。けれど、実の両親と妹を前にして王子のふりをする自信は、どこを探しても見つからなかった。じっくり向かい合って話すことになれば、帝王学や剣術どころの騒ぎではない。一言喋った途端に「お前は誰だ」と見破られ、そのまま詰問される未来しか思い浮かばない。
その猶予が、新学期の始まりと共に終わったのだ。連日の夜会や賓客の来訪がひと段落し、王家の予定にも、ようやく少し余裕ができたのだという。
「喜ばしいことですね」
ナナリーがそう答えると、エルネットは何も言わずに頷いた。その目がほんの少し気の毒そうに見えたのは、きっと気のせいではなかった。
*
王家の夕食は、食器の音まで上品だった。
銀の燭台に灯った火が、長いテーブルの白いクロスを柔らかく照らしている。中央には白いイリスを使った花飾りが置かれ、窓の外の夜空とは別世界のように、室内は温かな光で満ちていた。
焼いた肉と香草の匂いが漂ってきて、空っぽの胃袋が正直に反応する。ナナリーは、お腹が鳴らないよう、こっそり腹筋に力を込めた。シノンの身体は腹筋もしっかりしているので、こういう時だけは頼りになる。
国王と王妃ソフィア、そしてシノンの妹ヘンリエッタが、すでに席についていた。家族だけの食事だと聞いている。それなのに、学院で先生に当てられた時より、心臓がずっとうるさかった。家族水入らずといっても、ナナリーにとっては、この国で最も身分の高い三人に囲まれた晩餐なのだから、当然といえば当然だ。
カトラリーは、外側から使う。普段なら考えるまでもない作法を、頭の中で一つずつ確認しながら、ナナリーはスプーンを手に取った。錚々たる面々を前にすると、長年かけて身体に覚えさせた食事の仕方まで、どこかへ散歩に出かけてしまうらしい。
幸い、スープを飲むための道具については、思い出せた。
「家庭教師から聞いたが、まだ落雷の影響が残っているそうだな」
国王が、スープの皿から顔を上げた。シノンとよく似た青い瞳に威厳と、父親らしい気遣いが同居している。
「学院の方は大丈夫なのか?」
「大丈夫です」
返事だけは、驚くほどすんなり出た。
実際には、少しも大丈夫ではない。今日一日、ギュスターと回答集がいなければ、シノンの成績は歴史的な落ち込みを見せていたはずだ。けれど、国王へそのような報告をする勇気は、あいにく持ち合わせていなかった。それに、当のシノンは、ナナリーの姿になってもずいぶん大丈夫そうに見えた。自分の身体で授業を受けている本人が困っていないのなら、今はそれに甘えさせていただきたい。
「最終学年の成績は、その後も長くついて回る。体調には気をつけつつ、精進しなさい」
「はい」
せめて返事だけは優等生らしくしておいた。
元に戻ったら、シノンへ謝ることがまた増えそうだった。
ナナリーはスープを一口飲む。緊張で喉が狭くなっているのか、温かいスープが、いつもより時間をかけて胃へ下りていく。
「ヘンリエッタはどうだ。変わりないか?」
「女学院は、相変わらず賑やかですわ」
ヘンリエッタが微笑んだ。艶やかな金髪には真珠の髪飾りがよく映え、燭台の光を受けて、髪そのものが光っているように見える。王家というのは、兄妹揃って見た目に恵まれているらしい。
「特に、バディスト侯爵家のロザリー様が、お休みの間にお兄様のお部屋へ伺ったお話を、何度もなさるものですから」
彼女がちらりとこちらを窺ったので、ナナリーはスプーンを置いた。
「僕の部屋に来たことを、言いふらしているってこと?」
「ええ。お見舞いにいらしたのでしょう? まるで、ご自分がお兄様のお相手に決まったようなお話ぶりなのですけれど、よろしいの?」
国王も王妃も、こちらを見た。
ナナリーの頭に、ロザリーの熱烈な言葉と、甘い香りと、息を止めすぎて酸欠になりかけた記憶が浮かぶ。瓶の件は、まだ疑いの段階だ。それでも、迫られた上に、その訪問を結婚相手の証拠にされていると思うと、笑顔を用意する余裕がなくなった。
「無理です」
口にしてから、少し率直すぎた気がした。
案の定、ヘンリエッタは目を丸くし、国王は短く咳払いをした。王妃だけが、口元へナプキンを添えている。その肩がかすかに揺れているように見えたのは、見なかったことにした。
「つまり、お相手として考えているわけではないのね」
「はい。お見舞いに来てくださったことには、感謝しています。ですが、その件と、生涯を共にする相手を選ぶことは別です」
言い直してみると、先ほどよりずっと王子らしい説明になった。今日の帝王学では何一つまともに答えられなかったが、結婚相手についてなら、まだ意見を述べられる。ナナリーは少しだけ安心した。
「では、その辺りは、きちんと伝えた方がよいな」
国王の言葉に頷いたところで、ソフィアが穏やかに口を開いた。
「そういえば、最近はドラクロワ伯爵家のジョルジュを、よくお部屋へ呼んでいるそうね」
ナナリーは、水のグラスへ伸ばしかけた手を止めた。
「魔術師団からも報告を受けている」
国王が続ける。
「お前のために、何か調べているそうだな。師団長が内容を尋ねても、ジョルジュは頑として言わないらしい。何かよからぬことを企んでいるのではないかと、心配していたぞ」
剣の練習とは別の理由で、背中にじわりと汗が滲み始めた。
ジョルジュは、シノンに用事があるという形でナナリーを連れて王城を訪れていた。城内では、秘密の通路まで知っているシノンのおかげで、人目を避けて会えていると思っていたのだ。エルネットの協力もあり、周囲にはうまく誤魔化せていると信じていた。だが、避けていたつもりの人の目は、必要なところをきちんと見ていたらしい。
そもそも、誰が王子の部屋へ出入りしているのか把握していないようでは、警備の面でたいへん困る。王城の安全が守られているのは喜ばしいことだ。ただし、ナナリー個人の安全については、いま少しも守られていない。
「ジョルジュは優秀な魔術師だ。お前と気が合うことも知っている」
国王はそこで言葉を切り、表情を引き締めた。
「だが、私用で勝手な行動を続けるようなら、処分も考えなければならない。本人の将来にも関わることだ。お前も、その辺りは承知しているだろうな」
ナナリーは膝の上で手を握った。手のひらが汗で湿っている。
このままでは、兄の信用が落ちてしまう。自分を助けるために走り回ってくれた結果、降格などされたら、今度こそ焼き菓子では償えない。店で一番大きな箱を買っても、失った地位は戻ってこないだろう。
何か、もっともらしい説明をしなければ。
そう考えて口を開きかけた時、ヘンリエッタが不思議そうに国王を見た。
「あら。お父様はご存じないの?」
「何をだ?」
「お兄様は、ジョルジュ様の妹、ナナリー様と逢引をなさっているのよ」
ナナリーは、今度こそ何も言えなくなった。
召喚書を広げ、盗難届を読み、兄とカラスから説教されている時間が、王家の食卓で、逢引という華やかな名前に生まれ変わっている。あのサロンに恋人らしいものがあったとすれば、二人分の紅茶くらいではないだろうか。




