↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/84

31 へとへとになって考える

 部屋へ戻って湯浴みを済ませ、柔らかな部屋着へ着替えたナナリーは、ようやくソファへ身体を沈めた。湯で温まったはずの腕は、今になって鈍く重たくなり、持ち上げるだけで億劫だった。クッションに背中を預けると、そのまま床の下まで沈んでいけそうな気がする。


「最初は、男女の違いに驚くだけで済んだのに……」


 声が低い。背が高い。扉の枠に頭をぶつける。入れ替わった最初の夜は、そんな一つ一つに驚く余裕があった。それが今では、学院の難しい授業に、王子としての受け答え、放課後の帝王学と剣術まで加わっている。おまけに昼休みには、女子生徒たちの恋の噂にまで、それらしい顔で耐えなければならなかった。


 今抱えている問題の山に比べれば、身体の違いなど、もはや可愛らしい悩みに思えてくる。


 このままシノンの評判を落とさないよう気を張り続けていたら、そのうち自分の方が、おとぎ話の人魚のように泡になって消えてしまうのではないだろうか。


 泡になる理由が恋ではなく、穀物の流通と剣術だというところが、我ながら情けなかった。


「これ……本当にシノン殿下は、毎日こなしてるの?」


 口からこぼれた声には、自分でも驚くほど力がなかった。


 窓の外には、明かりの灯り始めた王都が広がっている。石畳の通りを馬車がゆっくりと行き交い、家々の煙突からは、夕食の支度らしい煙が細く立ち上っていた。風向きのせいか、どこかでパンを焼く香ばしい匂いが、ほんのわずかに届いた気がする。


 あの灯りの一つ一つにも、学院から帰った子どもがいるのだろう。机に向かう者もいれば、家族と食卓を囲んでいる者もいる。少なくとも、帰って早々に飢饉の対策を問い詰められ、そのあと熊のような騎士団長に剣を振らされている者は、そう多くないはずだ。自分なら、とっくに逃げ出している。


 そこまで考えてから、ナナリーはふと窓の外へ目を戻した。では、シノンは逃げたいと思ったとき、いったいどこへ逃げるのだろう。


 学院へ行けば生徒たちに囲まれ、王城へ戻れば家庭教師や騎士団長が待っている。街へ出ても、彼の顔を知る者はいくらでもいるし、自室へ戻ったところで、王子でなくなるわけではない。逃げ込める場所を探して頭の中の地図を広げてみても、どこにも印がつけられなかった。


 今日の講義の終わりに、家庭教師が言っていたことを思い出す。王家の判断が遅れれば、その間に、食べるものを失う民がいる。教本の中では数字でしかなかったその言葉が、窓の向こうに並ぶ家々の灯りを見ていると、少しだけ違って聞こえた。あの煙突の煙が消えないように考えるのが、シノンに与えられた仕事の一つなのだ。


 生まれた時から見目麗しく、頭もよく、何でも揃っている王子の人生は、ずいぶん楽なのだと思っていた。美しい顔で微笑めば人が集まり、何を言っても感心され、お腹が空けば美味しいものが用意される。けれど実際には、集まってきた人々の問いには答えなければならず、口にした言葉には責任がつきまとう。美味しい夕食の前には、穀物の流通を考え、剣まで振らなければならない。ナナリーが知らなかっただけで、シノンはずっと、こういう毎日を当たり前の顔で送っていたのだ。


 卓上には、先ほど閉じた帝王学の教本が置かれている。少し迷ってから、ナナリーは重たい腕を伸ばした。


 シノンが学院で一位なのは、王子だからではない。自分が小説を読んだり、お菓子を食べたり、昼寝をしたりしている時間にも、彼はこうしてページを開いていたのだろう。


 試験の掲示板の前で、運がよかったと笑っていた彼の顔を思い出し、ナナリーは小さく唇を噛んだ。あの時、八つ当たりで睨んだことを、本人に知られていなければいいと思う。


 もう一度、穀物の流通について書かれた箇所を開く。相変わらず文字は多く、分からない言葉も多い。それでも今度はページを閉じず、意味の分からない言葉の横へ、一つずつ小さな印をつけていった。印は思ったよりたくさん並び、余白が小さな点で埋まっていく。


 せめて明日は、お気持ちだけで国を支えようとするのはやめたかった。


 そうしてしばらく教本と格闘していると、お腹の奥から、くう、と情けない音が鳴った。剣を振った分の空腹が、今になって追いついてきたらしい。ちょうどその時、扉が控えめに叩かれた。


「殿下。お夕食のお時間でございます」


 ロランの声に、ナナリーは勢いよく顔を上げた。夕食という言葉が、今日一日で聞いた中で一番美しい響きを持っていた。


「すぐ行くわ。……じゃなくて、行こう」


 教本を閉じて立ち上がると、こわばった太腿が小さく悲鳴を上げた。それでも足取りは軽い。頭も身体も散々酷使されたのだから、せめて夕食くらいは、何も考えずに美味しいものを食べさせてもらいたい。


 今日の献立は何だろう。肉なら嬉しいし、魚でもいい。料理の量を増やすよう料理長に伝わっているはずだから、おかわりを頼んでも、もう誰も騒がないだろう。


 廊下にでようと扉を開けると、ロランが手帳を胸に抱えたまま、なぜか背筋を必要以上に伸ばして立っていた。


「本日のお夕食は、小食堂にご用意しております」


「小食堂?」


「はい。陛下と王妃様、ヘンリエッタ殿下もご一緒に」


 浮き立っていた足が、廊下の絨毯の上でぴたりと止まった。


 陛下とは、つまりシノンの父親であり、この国の王様である。そこへ王妃様と王女様が加わる。ナナリーは、朝食のパンを一つしか食べなかっただけで侍医を呼ばれかけたという、シノンの報告を思い出した。


 あちらは伯爵家の食卓で、こちらは王家の食卓である。何かを間違えた時に呼ばれるのは、侍医だけで済むのだろうか。


 お腹がもう一度、くう、と鳴った。空腹と緊張が同時にやってくると、身体はどちらに従えばいいのか分からなくなるらしい。ナナリーは生まれて初めて、夕食に向かう足が重いという経験をしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。