30 お気持ちだけでは、国は回らない
新学期の一日目を終えて王城へ戻ったナナリーを待っていたのは、温かな紅茶と焼き菓子ではなく、両手で抱えなければならないほど分厚い帝王学の教本だった。
通されたのは、シノンの居室から廊下を一つ隔てた書斎である。壁一面の書棚には背表紙の色まで揃った本がぎっしりと並び、窓辺の大きな机には、インク壺と羽ペンが寸分の狂いもなく置かれていた。
午後の日差しはすでに傾きかけ、磨き込まれた床の上に、窓枠の影が斜めの格子を描いている。紙と古い革の匂いが混じり合ったその部屋は、学院の図書室よりもさらに静かで、咳払い一つにも許可が要りそうだった。
「本日はお疲れでしょうから、前回の復習を中心にいたしましょう」
家庭教師は穏やかに微笑んだ。銀髪のよく似合う品のよい老紳士で、目尻の皺まで優しげに刻まれている。その柔和な顔を見た時、ナナリーは少しだけ肩の力を抜いた。学院では朝から散々な目に遭ったのだ。復習くらいなら、何とかなるかもしれない。
もっとも、彼の言う復習と、ナナリーの考える復習は、まったくの別物だった。
「では、飢饉の年に穀物の流通を領主の裁量へ任せる利点と、王家が介入すべき条件についてお答えください」
前回どころか、初対面の問題である。人生のどこかでこんな質問をされる日が来るとは、想像したことすらなかった。
ナナリーは助けを求めるように教本へ目を落とした。開かれたページには、穀物価格の変動、街道の整備状況、領地ごとの備蓄量について、目が滑りそうなほど細かな文字が並んでいる。読もうとすればするほど、文字が行の端から逃げていく気がした。
穀物なら知っている。パンになるものだ。今朝も三つ食べた。けれど、パンになるまでにこれほど多くの問題を抱えているとは知らなかったし、そこへ飢饉という恐ろしい条件までつけて答えを求めてくるのだから、目の前の老紳士は、柔和な顔をした悪魔なのかもしれない。
「王家ができることは、皆さんに仲良くしていただけるよう、お願いする……とか?」
老紳士が一度だけ瞬きをした。笑顔はそのままなのに、目の奥の何かが、静かに一歩後ろへ下がった気がする。
「殿下。お気持ちは大切ですが、税と流通についてもお考えください」
「はい」
お気持ちだけでは、国は回らない。
ナナリーはその日、一つ賢くなった。
そこからしばらく、容赦なく講義は進んだ。
不作の領地へ別の領地から穀物を送ったかと思えば、税率が上がり、下がり、今度は街道が崖崩れで塞がれて荷馬車が通れなくなる。さらに備蓄まで足りないと言われる頃には、ナナリーの頭の中で、行き場を失った大量の小麦袋が街道の真ん中に積み上がり、荷馬車の御者たちが揃って途方に暮れていた。その袋の山の頂上に、自分もちょこんと座っている気がする。
ようやく教本を閉じた時には、こめかみの奥がじんじんと脈打ち、学院の授業をもう一日受けたような疲労が肩へのしかかっていた。窓の外の光は、いつの間にか琥珀色に変わっている。
これで、ようやく休める。そう思って椅子の背へもたれた途端、扉の隙間からロランが顔を出した。
「殿下。騎士団長がお待ちです」
「なんで?」
思わず素で返してしまった。ロランは、王子に「なんで」と聞き返されることを想定していなかったらしく、手帳を胸に抱えたまま固まっている。
「剣術の、ご指導を」
ナナリーは閉じたばかりの教本へ、そっと手を戻した。今なら、穀物の流通についてもう少し考えたいと言えば、剣術を回避できないだろうか。
十分前まで悪魔だと思っていた家庭教師が、急に救いの女神に見えてくる。けれど、老紳士は「若いうちは身体も鍛えねばなりませんな」と朗らかに頷き、自ら扉を開けてくれた。救いの女神は、思ったよりあっさりと手を離すものらしい。
*
夕方の訓練場は、学院の食堂よりもはるかに容赦がなかった。
空は淡い茜色に染まり、城壁の影が踏み固められた地面の上へ長く伸びている。乾いた土の匂いに、汗と革と鉄の匂いが混じっていた。吹き抜ける風は涼しいはずなのに、ナナリーの額からは汗が次々と伝い、顎の先から地面へ落ちて、小さな黒い点を作っていく。
握った練習用の剣は、最初こそ驚くほど軽かった。シノンの身体には十分な筋力があり、ナナリー自身の腕なら持ち上げるだけで震えそうな鉄の塊を、難なく振り上げることができる。ほんの一瞬、自分は剣の才能に目覚めたのではないかと胸が躍った。けれど、持ち上げられることと使いこなせることが別物だと知るまでに、それほど時間はかからなかった。
「踏み込みが浅いですな」
「はい」
「腕だけで振っておられる。腰を使って」
「はい」
「今のは、腰を曲げただけです」
腰を使えと言われたので使ったのに、使い方にも細かな決まりがあるらしい。
騎士団長は熊のような体格をした壮年の男で、声を張り上げなくても、言葉の一つ一つが腹の底へずしりと響いた。
ナナリーは乱れた息を整えながら、もう一度構え直す。
身体には力があるのに、その力をどこへ流せばいいのかが分からない。立派な四頭立ての馬車を与えられたのに、手綱の握り方を知らないような気分だった。馬だけが元気に走り出し、御者席の自分は振り落とされまいと必死にしがみついている。
騎士団長いわく、落雷の影響を考慮して、今日はいつもよりずっと軽い訓練にしてくれているのだという。これで軽いのなら、普段のシノンは一体何をしているのだろう。考えるのが少し怖かった。
最後に剣を下ろした時には、柄を握っていた指が固まり、一本ずつ開くのにも時間がかかった。手のひらは熱を持ってじんと痺れ、肩から二の腕にかけて、自分のものではない筋肉が文句を言っている。正確には、もともと自分のものではないのだが、文句だけは間違いなくナナリーに届いていた。身体そのものにはまだ余力がありそうなのに、中にいるナナリーの方が、これ以上の指示を受けつけそうにない。
「まだ本調子ではないようですな。焦らず、感覚を取り戻していきましょう」
騎士団長の言葉に、ナナリーは深く頷いた。取り戻すも何も、その感覚を最初から持っていないのだと、できることなら声を大にして訴えたかった。




