29 殿下、その笑顔は私のものです
ルルーナの口から飛び出した、「別人みたい」という言葉に、息を詰めてシノンを見る。彼も一瞬、カップへ伸ばしかけた手を止めたように見えた。けれどすぐに指を取っ手へ添え、柔らかく微笑む。
「そうかしら。あの事故から、少し考えが変わったのかもしれないわ。怖い思いをしたからもう少し、一日一日を大切にしようと思ったの」
「まあ。そんなに恐ろしかったのね」
ルルーナたちが同情するように頷き合った。誰もそれ以上は疑っていないようだった。
ナナリーはようやく息を吐き、胸の辺りへ手を当てた。初等科から何度注意されても授業中に寝ていた自分が、落雷をきっかけに更生した。少々大袈裟だが、中身が王子だと気づかれるよりは、はるかによい。
向かいを見ると、ギュスターも水を一口飲み、わずかに寄せていた眉を緩めていた。
「それに、休暇中に少し復習したの」
シノンが続けると、ルルーナはまだ納得しきれない様子で首を傾げた。
「でも、それだけで、あんなふうに答えられるようになるの?」
ナナリーも、それは聞きたかった。こちらは王子の回答集を握り締め、半日で一か月分も疲れたというのに、向こうは自分の顔で、軽々と評判を上げている。
「王子妃になるために、心を入れ替えたんじゃないの?」
ルルーナの言葉に、周りの女子たちが一斉に声を上げた。
「そうよね。先生にいくら注意されても勉強嫌いだったのに、今日のナナリーは違うもの」
「そうそう。まるで女学院の生徒みたいに、立派な淑女に見えるわ」
「ナナリーは、やればできる子なのよ。一応、伯爵令嬢でもあるわけだし」
ジェニーが口を挟んだ。
一応とは、どういうことだろう。伯爵令嬢である点については、何の留保もなく認めていただきたい。
そんなナナリーの抗議は届くはずもなく、別の子が楽しそうに続けた。
「でも、好きな方ができると、変わるとは言うわよね」
「分かるわ。急に身だしなみに気を遣ったり」
「勉強も、立派なお相手に釣り合うためなら、頑張れるもの」
ナナリーは、魚フライの衣をフォークの先で押した。
勉強ができるようになった理由として、中身が別人になったという正解より、恋をしたという説明の方が、よほど簡単に受け入れられるらしい。しかも、自分が普段いかに授業で寝ていたかまで、本人不在のつもりで丁寧に確認されている。本人は、すぐそこで魚フライを食べようとしているというのに。
「私が変わって見えるのは、そうね。休暇中、少し考えることがあったからかもしれないわ」
シノンが穏やかに答えた途端、ルルーナの目が光った。
いけない返事だと、ナナリーにも分かった。考えること、という曖昧な言葉には、何でも詰め込める。その中へ正解の入れ替わりや欠けた術式を入れてくれる人は、この食堂には、自分のほかに三人しかいない。
「まあ」
ルルーナは口元へ手を添え、なぜか、こちらへ視線を向けた。
ナナリーは慌てて顔を伏せ、魚フライに集中しているふりをした。タルタルソースを追加で載せ、切り分けた身の向きを整える。こんなに真剣に昼食と向き合っている王子が、ほかにいるだろうか。
「今、こっち見た」
「見るな」
ギュスターが低く言った。
「もう見られた後なんだけど」
「だから、見返すな」
彼の助言に従って皿を見つめていると、向こうから満足そうなルルーナの声が聞こえた。
「まあ、いいわ。そういうことにしておいてあげる」
「どういうこと?」
シノンがたずねる声がする。
「今は、詳しく言えないということよ」
ルルーナの少し得意げな声に、ナナリーは心で返す。
詳しく言えないのは、確かに合っている。けれど、合っているところだけ拾って納得されても困る。
ナナリーはそっと目だけを上げた。ルルーナは意味ありげに微笑み、その周りの女子たちも、何かを共有した顔で頷いている。否定すれば照れていると思われ、黙れば認めたと思われそうな、たいへん不利な輪が出来上がっていた。
シノンはまだ微笑んでいたが、ルルーナが隣の席の令嬢へ何か囁いたところで、ようやくジェニーへ顔を向けた。
「今の、何か間違えたのかしら」
「可能性はあるわね」
「何を?」
「恋していると思われたってこと」
シノンの笑顔が、今度こそ消えた。そのままジェニーを見つめ、何か言いかけた口を閉じる。ようやく、ナナリーと同じところへ辿り着いてくれたらしい。
「さすがの殿下も、女子の会話のレベルの高さには、白旗を上げたみたい」
ナナリーが声を落として言うと、ギュスターは怪訝そうに眉を寄せた。
「レベルの高さ、なのか?」
「そうよ。ちなみに、ギュスター様がジェニーを特別に思っていることも、あそこのみんなにはばれてるから」
「なっ……!」
ギュスターは声を上げかけ、慌てて口を閉じた。水差しの取っ手を握る指へ力が入り、白くなっている。彼の顔は、先ほどまでとは比べものにならないほど赤かった。耳どころか、首筋から頬まで、すっかり朱に染まっている。
「適当なことを言うな」
「適当じゃないよ。女子の噂の早さを甘く見ないで。初等科の頃から、ギュスター様がジェニーを目で追ってるって、話にはなってたんだから」
「追っていない」
「追ってた。間違いなく追ってたわ」
きっぱり答えると、ギュスターは黙り込んだ。王子の身体で、親友を巡る恋の噂について断言している。シノンの名誉のために助けてくれた人へ、こちらは何をしているのだろう。
ナナリーは少しだけ反省し、視線を女子たちの席へ戻した。
シノンは、まだ笑顔を取り戻していなかった。ジェニーへ低い声で何か尋ねているが、食堂のざわめきに紛れ、今度は言葉までは聞き取れない。シノンは困ったように笑い、首を横へ振っていた。
どうやら、王子も万能ではないらしい。
いつも冷静で、何を聞いても正しい答えを返してくるシノンが、女子たちの勘違いに振り回されている。それを見ると、ほんの少しだけ胸がすいた。ただし、振り回された結果を引き受けるのは自分なので、いつまでも喜んではいられない。
「とにかく、殿下の方の誤解を解くのが先だ」
ギュスターが低い声で言い、冷えた水を飲んだ。先という言い方が少し気になったが、ナナリーは聞き返さないでおいた。
「そうね。あそこまで恋する乙女の話が完成しちゃうと、私が元の身体に戻った時、ものすごく恥ずかしい思いをすることになるし」
ため息をつき、ようやく魚フライを口へ運ぶ。さくりと衣が砕け、冷めかけた白身と、酸味のあるソースが口いっぱいに広がった。温かいうちに食べたかったが、これだけ話を聞かされれば仕方がない。それでも、美味しいものを噛んでいる間だけは、午前中から酷使された頭が少し休まった。
「ナナリー嬢は、恋をなさったらしいわ」
ルルーナのいる席から、すぐ隣の席へ、その言葉が渡った。
ナナリーは咀嚼を止めかけたが、飲み込んでから、もう一度シノンを見る。自分の顔をした王子も、こちらへ視線を向けていた。
ナナリーはにこりともせず、その目を見返した。学院では必要以上に接触しない。昨日はそう約束した。けれど、次に二人で話せる時には、まず言っておかなければならない。
殿下、その笑顔は私のものです。使うたびに恋の噂が増えるなら、もう少し加減していただきたい。
その間にも、話を聞いた令嬢が身を乗り出し、弾んだ声で尋ねた。
「それで、シノン殿下とはどこまで進んでいるの?」
シノンが、こちらを見たまま固まった。
ナナリーも動けなくなった。二人で同じ問いを聞いてしまったせいか、あの雨の東屋で触れた唇の温かさが不意に蘇る。魚フライで満たされかけていた頭が、今度は別の記憶でいっぱいになった。
何も進んでいないと言ってもらいたい。けれど、その返事を待つ自分の頬が熱いのは、たいへんまずかった。
ナナリーは水のカップへ手を伸ばした。あちらが答える前に、こちらの顔から余計な情報が伝わらないようにしなければならなかったからだ。
*
一日目が終わる頃には、ナナリー・ドラクロワが恋をしたという話が、廊下へ出たナナリーの耳まで届いていた。
「最近、お勉強にも熱心なんですって」
「恋をすると、変わるものなのね」
「笑顔も、すっかり大人っぽくなって」
ナナリーは壁際に立ち、遠くで女子生徒に囲まれている自分の姿を眺めた。
シノンは、困った様子を表へ出さず、穏やかに相槌を打っている。そのたびに、周囲の令嬢たちが嬉しそうな顔をした。
恋をして変わったのではない。中身が、王子になったのだ。
訂正すれば一度で済む話なのに、訂正できない。もどかしすぎる状況だ。
ジェニーが隣へ来て、声を落とした。
「授業、どうだった?」
ナナリーは抱えていたノートを開いた。
分からなかったところへ印をつけたら、ページの半分ほどが丸で埋まっていた。教本のどこを見るかはギュスターのお陰で分かった。それ以降は、かなり怪しい。
「私も、恋をしたことになれば、急に勉強ができると思ってもらえるかしら」
愚痴っぽく呟く。
「今のあなたは、王子様よ。できて当然だと思われているわ」
ナナリーはノートを閉じた。
向こうでは、シノンがまた、自分の顔で綺麗に笑っている。
必要以上に接触しないという約束を、今すぐ破りたくなった。けれど、その笑顔へ王子が駆け寄っていけば、ルルーナの噂に信憑性が増すだけだ。
ナナリーはぐっと足を止め、ジェニーへノートを差し出した。
「殿下へ渡してくれる? できれば、笑顔より先に、こちらの丸を見てとお伝えしておいてくれるとありがたいわ」
「了解」
ジェニーはページを開き、丸の数を見て黙り込んだ。そんな彼女の肩に「よろしくね」と触れたい気持ちを押さえて、ナナリーは馬車留めへ足を向けた。




