28 まるで、別人みたい
午前の授業を終えた時、ナナリーは、一か月分の講義をまとめて受けたような気分になっていた。
実際には、まだ半日しか経っていない。けれど、先生が教室を見渡すたびに背筋を伸ばし、こちらへ視線が向くたびに机の下のメモを確かめ、分かっているふりをするために使った労力まで含めれば、そろそろ長期休暇をいただいてもよい頃合いだった。
一限目の実技は、落雷の影響でと誤魔化すことで、何とかやり過ごせた。シノンの用意した回答集にも、本当に助けられた。ただし、書かれた答えを見つける速さと、先生が返事を待ってくれる時間は、あまり釣り合っていない。
何度か危ない場面もあったが、そのたびに隣のギュスターが教本を開き、「こちらの箇所ですね」と助け舟を出してくれた。
優等生の授業とは、もっと優雅なものだと思っていた。知っていることを涼しい顔で答え、知らないことは、興味深そうに頷きながら聞けばいい。ただ、知っていることが一つもない場合については、考えていなかった。
これが明日も、その次の日も続くと思った途端、廊下の窓から入る風が、急に冷たく感じられた。一刻も早く元に戻る方法を探さなければならない。盗まれた魔術書の捜索には、自分の身体だけでなく、今後の安眠もかかっている。
「そんな顔で食堂に入るな」
隣を歩くギュスターに言われ、ナナリーは頬へ手を当てた。
「どんな顔?」
「王国の滅亡を告げられたような顔だ」
「それに近いことを考えてた」
「授業のことだろ」
言い当てられたので、ナナリーは返事の代わりに深く息を吐いた。
学院の食堂は、大聖堂を思わせる広大なホールだった。重厚な木のアーチが頭上高く連なり、壁にはめ込まれたステンドグラスから、柔らかな色つきの光が差し込んでいる。両脇には、歴代の著名な卒業生や偉大な魔術師たちの肖像画が並び、中央を埋める長いテーブルを見下ろしていた。
普段から、立派な人たちに昼食の食べ方まで監督されているようで少し落ち着かない場所だ。今日はそれに加え、壁の魔術師たちから、午前中の理解度を問われそうな気がした。
肖像画と目を合わせないようにして歩くと、テーブルランプの温かな光が、白いクロスと磨かれた食器を照らしている。
厨房から漂ってくる揚げ物の香りだけは、ナナリーを責めなかった。何を理解していなくても、お腹が空いていれば歓迎してくれる。今は、その懐の深さがありがたい。
ギュスターが人の流れを避け、窓に近い席へ案内してくれた。途中で何人かがこちらを見たものの、彼が隣にいると、不思議と話しかけてくる人は少ない。午前中から、ほとんど近衛騎士のように守ってもらっている。
ようやく椅子へ腰を下ろすと、張り詰めていた肩から力が抜けた。
「ギュスター様、今日は本当にありがとう」
向かいへ座りかけた彼が、少し意外そうにこちらを見る。
「ジェニー嬢に頼まれたし、殿下の名誉のためでもある」
「どちらにしても、助かったわ。あなたがいなかったら、先生に三回くらい、どうしてですかって聞かれてたと思う」
「三回では済まない」
訂正が厳密すぎる。ナナリーは口を尖らせかけ、王子の顔でそうするのもどうかと思い直して、運ばれてきた水を飲んだ。
ギュスターとは、初等科から同じ学院へ通っている。それなのに、いつの間にか挨拶くらいしかしなくなっていた。幼い頃、彼がジェニーへ意地悪なことを言っていた記憶もあり、正直少し苦手だった。
けれど、今朝から何度も助けてもらった。口調はぶっきらぼうでも、困っているところを見て見ぬふりをする人ではないらしい。そう考えると、前から気になっていたことも聞いてみたくなった。
「そういえば、どうしてジェニーを好きになったの?」
ギュスターの手が、水差しの取っ手を掴んだまま止まった。
「何の話だ」
「だからジェニーの話。初等科の頃は、よく喧嘩してたでしょう」
「声が大きい」
「今、かなり小さくしたつもりだけど」
「もっと声を絞れ」
午前中の講義について話していた時より、よほど厳しい指示だった。見れば、ギュスターの耳が赤くなっている。今朝は耳たぶだけだったが、今回は首の辺りまで色がついていた。
ナナリーは少し身を乗り出し、言われた通り声を落とした。
「大丈夫。ジェニーには言わないから」
「そういう問題ではない」
「じゃあ、どういう問題?」
ギュスターは答えず、給仕が置いた皿へ視線を逃がした。本日の昼食は、白身魚のフライに温野菜、焼きたてのパンだった。小さな器には、刻んだ卵と香草の入ったタルタルソースがたっぷり添えられている。
ナナリーがフォークを手に取ったところで、向かいから観念したような低い声が聞こえた。
「最初は、あまり好きではなかった」
「すぐ言い返してくるから?」
「何を言っても、倍になって返ってくるから」
「分かる」
深く頷くと、ギュスターがこちらを見た。ナナリーは慌てて補足する。
「ジェニーのそういうところ、私もよく知ってるって意味だから」
彼は少し黙り、ナイフの位置を直した。すでに綺麗に並んでいるのに、もう一度、皿と平行に揃えている。
「実習で、手を怪我したことがあった。大した傷ではなかったんだが、彼女がひどく心配して」
ナナリーは魚を切る手を止めた。
「俺が平気だと言っても聞かなかったんだ。先生を呼んできて、治療が済むまで隣にいた。普段あれだけ言い合っているのに、まるで自分が怪我をしたみたいな顔をしていたから」
「ジェニーらしいね」
話を聞いているうちに、その時の親友の顔が浮かんだ。眉を寄せ、心配のあまり、どうしてもっと気をつけないのかと叱ったに違いない。
「面倒見がいいし、何だかんだ優しいもんね。分かるわ、その気持ち」
「分かったなら、この話は終わりだ」
「ちゃんとお礼は言った?」
「言った」
「意地悪は?」
「してない」
即答したギュスターの顔には、まだ赤みが残っていた。ナナリーはそれ以上聞かず、魚フライへタルタルソースを絡めた。親友を好きになった理由としては、なかなかよい答えだった。少なくとも表紙の見た目がいいというだけで召喚書を買った自分より、ずっと立派な理由に思える。
その時、通路を挟んだ斜め前の席に、見慣れたうぐいす色の髪が見えた。
自分の姿をしたシノンが、ジェニーと並んで座っている。周りにはルルーナをはじめ、同じクラスの女子たちが集まっていた。女子の輪の端にいるのは、いつものナナリーと同じだ。その位置なら問題ない。ただ、背筋を伸ばして紅茶のカップを持つ姿は、肖像画にして飾れそうなくらい整っている。
あの姿勢のよさには、朝からどうにも慣れない。自分は普段、食事のたびに母から背中を叩かれているのに。
「ねえ、ナナリー。殿下と一緒に雷に打たれたって、本当なの?」
ルルーナの声が聞こえ、ナナリーは魚フライへ刺したフォークを止めた。そうだった。彼女は、あの夜会に来ていた。
シノンはカップを受け皿へ戻し、穏やかに首を傾けた。
「同じ庭にいたのは本当だけれど、雷に直接打たれたわけではないの。近くに落ちて、巻き込まれてしまっただけよ」
「でも、殿下があなたを助けてくださったのでしょう?」
「ええ。ご親切にしていただいたわ」
余計なことは言わず、事実だけを丁寧に答えている。ナナリーは少し安心して、止めていたフォークを動かしかけた。
「じゃあ、最近、ジョルジュ様と一緒に殿下をお訪ねしているのも、そのお礼?」
今度は、向かいのギュスターまで顔を上げた。シノンは笑顔を保ったまま、ほんの少し目を細める。
「それは、どこで聞いたの?」
「従妹から。情報源は、たぶん王妃殿下じゃないかしら」
「王妃……殿下?」
シノンの声が、わずかに低くなった。ジェニーがその横で水のカップを持ち上げる。ナナリーも、喉が急に渇いてきた。
「従妹の母親が、王妃様のお茶会へ伺ったの。その時、ドラクロワ嬢はあれからどうしているのかってお話になったらしくて。ジョルジュ様と一緒に、何度か殿下のところへいらしているって」
王妃のお茶会から、従妹の母親へ。そこから従妹へ、そしてルルーナへと話が伝わったらしい。
ナナリーは、王城のサロンで原本の行方を調べていた時間を思い出した。こちらが一冊の本の購入経路を辿っている間に、令嬢たちは王子の来客情報をずいぶん軽やかに運んでいたようだ。魔術師団にも、この速さで情報を集めていただきたい。
「皆さん、そういったお話がお好きなのね」
シノンが柔らかく言った。声だけなら感心しているようにも聞こえるが、ナナリーには、その笑顔が少し硬くなったように見えた。
「そりゃ、気になるわよ。殿下のお相手選びは、私たちにも関係があるかもしれないんですもの」
ルルーナは、けろりとした顔で答えた。
「そもそも、殿下が早くお相手を決めてくださらないから、みんな、ちょっとしたことまで気になるの。さっさと決めてくださらないと、私たちだって意中の人にアプローチをかけにくいのに」
ジェニーが苦笑いを浮かべた。その隣では、決めてくださらない本人が、ナナリーの顔で相槌を打っている。
聞いているだけなのに、胃の辺りがひやりとした。午前の授業を乗り越えたところで、昼休みには別の試験が始まっている。しかも答えを間違えると、自分の縁談に影響が出そうだった。
ナナリーは顔を動かさず、向かいのギュスターへ声を落として話しかけた。
「今の話の流れだと、何となく私が婚活レースで抜きん出ているふうに聞こえない?」
「俺に聞くな。ゴシップには興味がない」
「私も自分のことじゃなければ、そこまで興味はないんだけど」
「なら、聞くな」
「聞こえてくるんだもの」
実際、女子たちの声はよく通った。食器の触れ合う音や、ほかの席の笑い声が重なる中でも、自分の名前と殿下という言葉だけは、なぜか耳が拾ってしまう。
「何だかんだ言って、ナナリーだって、悪い気はしていないのでしょう?」
ルルーナが身を寄せると、シノンは一度、手元の皿へ目を落とした。
「そういう噂になるのは、あまり嬉しくないわ。どうしてそう思うの?」
「だって、休暇が明けてから、笑顔が増えたもの」
ナナリーは、思わずシノンを見た。
確かに、今も微笑んでいる。周囲の話へ耳を傾け、相手の顔を見て頷くタイミングまで、いちいち感じがよい。いつもの自分なら、魚フライが冷めないうちに食べることを優先していたはずだ。
「姿勢もよくなったし、授業中も寝ないし。先生に当てられて、すぐ答えていたでしょう。まるで別人みたいに」
別人みたい、という言葉に、ナナリーの手が止まった。周囲のざわめきが急に遠くなり、背中へ冷たい汗が滲む。
あまりに核心を突いている。見た目はナナリーでも、中身は優秀で品格溢れるシノンなのだから、別人みたいなんて話ではない。完全に別人だ。違いを丁寧に並べられるほど、自分たちの秘密へ近づかれているような気がした。




