27 私の評判を勝手に上げないでください
「ナナリー?」
ジェニーの声に、はっと我に返る。
「ジェニー、おはよう。さっきはありがと!」
親友の顔を見た瞬間、先ほどまで気をつけていたことが、綺麗さっぱり頭から消えた。両腕を広げ、そのまま駆け寄ろうとする。
しかし一歩目を踏み出したところで、ギュスターに腕を掴まれた。
「待て」
「何?」
「今のお前は殿下だ」
「あ」
ナナリーは自分の身体を見下ろした。長い脚に、広い肩幅。優等生の証である金のラインが入ったローブ。どこからどう見ても、シノン王子の身体だった。
その姿で、勢いよく令嬢に抱きつこうとしていたのだ。しかも、相手はジェニーである。嫌な予感とともに顔を上げると、ギュスターと目が合った。いつも以上に目つきが鋭い気がする。
「ぎりぎり、してない。危なかった」
息をついて肩を落とすと、ギュスターが短くうなずいた。
「ああ、ぎりぎりだ」
「ギュスター様、止めてくれてありがとう」
「本当に頼む。余計な噂に、ジェニー嬢を巻き込むな」
いつもより低い声だった。心配の向かう先がシノンではなく、あくまでジェニーなのが分かって、ナナリーは少し笑いそうになる。
「そうだね。ジェニーを巻き込まないように気をつける」
「私は、別にいいけど」
ジェニーが笑いを堪えながら言った。
「よくない」
「よくない」
ギュスターとシノンの声が、綺麗に重なった。
「でも、見た目が殿下になっても、中身は親友のナナリーなのよ?」
「駄目だ」
「駄目だ」
また重なった。どうやらこの二人は、こちらが思っていた以上に仲がいいらしい。
ジェニーは目を丸くしたあと、とうとう吹き出した。
「何だか二人とも、似てるのね」
「どこがだ」
今度は、シノンだけが答えた。不機嫌そうに腕を組み、眉間に皺を寄せている。自分の顔がそんな表情をしているのを眺めていると、ナナリーのほうまで不満が膨らんできた。
「でも、ジェニーとはいつもこうしてるんだけど」
「今日はするな」
シノンが深々とため息をついた。
「自分の見た目を忘れないようにと、昨日あれほど話しただろう」
「もちろん忘れてないし。一瞬だけ、ジェニーしか見えてなかっただけ」
「それを忘れたと言うんだ」
「違うわよ。私はちゃんとシノン殿下よ」
「その発言もおかしい」
指摘されて、ナナリーは口を閉じた。今の言葉だけ聞けば、本人が自分の名前を確かめているようなものだ。何より本物のシノンは、そんな間の抜けた宣言などしないだろう。
ジェニーが肩を震わせる横で、ギュスターは額を押さえていた。
「学院では、必要以上に接触しない。それも昨日決めただろう」
シノンが呆れたように言った。
「覚えてるってば」
「登校してまだ一時間も経っていないのに、もう約束を破るつもりか?」
「破ってないわ。ちゃんとギュスター様が止めてくれたじゃない」
「俺が止めなければ、抱きついていただろう」
「だから、止めてくれてありがとうって言ったでしょ?」
シノンがまたため息をつく。自分の顔で呆れられるのは、思っていた以上に腹が立った。
何か言い返そうとして、ふとジェニーを見る。彼女はまだ楽しそうに笑っていた。その飾らない笑顔に、ナナリーの口元まで緩んでくる。
身体が入れ替わってからは、相手が自分の顔を見ているのか、それとも中身に話しかけているのか、気にすることが増えた。けれど今、ジェニーが笑っているのは、間違いなくナナリーのしたことに対してだった。
「分かったわ。これから朝の挨拶はこうする」
今度は抱きつかず、離れた場所で両手を広げた。
「こうやって、気持ちだけ抱きしめておく」
「いらない」
「ジェニー!」
「だって、殿下のお顔でそれをされると、ものすごく困るもの」
ジェニーは笑いながら一歩下がった。隣でギュスターの肩が少し下がったのを見て、ナナリーも両手を下ろす。
学院生活の初日。教室へ辿り着く前から、守らなければならないことが多すぎた。
「それより、授業は大丈夫?」
ジェニーが、今度は心配そうに尋ねてきた。
「シノン殿下のクラスって、進み方も扱う術式も全然違うでしょう。ナナリー、ついていけるの?」
「私も、それ思った」
深くうなずいておく。初日から、親友と大変有意義な意見の一致を見た。ただし、解決策はまだない。
「殿下の身体なら、少しは頭もよくなるかと思ったんだけど。昨日、予習しようと教本を開いた時点で、そうでもないことが分かったの」
「少しはって、どれくらい期待してたんだ」
ギュスターが尋ねた。
「そりゃ、読めば分かるくらいには」
「それは、少しではないな」
即座に返されたが、ナナリーとしてはかなり控えめな願いのつもりだった。せっかく王子の身体なのだから、魔力や背丈だけでなく、教本を読んだときの理解力まで借りられてもよかったはずだ。
「いっそ、成績を理由に、もう少しゆっくり教えてもらえるクラスへ移れないかな?」
シノンの目が細くなった。
「俺が休暇中に、試験前の君と同じ成績にまで落ちたと?」
「落雷の影響で」
「便利に使いすぎだ」
被せるように言われ、ナナリーは口を閉じた。落雷には、もう少し責任を取ってもらってもいいと思う。
「座っているだけなら、ナナリーにもできそうだけど。問題は実技と、講義中に先生から指名されたときよね」
ジェニーが具体的な心配を挙げてくれたので、ナナリーも一つ付け足しておく。
「あとは、講義が難しすぎて眠くならないかも。分からない話が続くと呪文みたいに聞こえて、よく眠れちゃうんだよね。もしかして、まだ成長期なのかも」
「いつもなら突っ込みたいところだけど、久しぶりにナナリーらしい見解が聞けて嬉しいわ。まさか、こんな日が来るとは思わなかったけど」
「だよね」
笑顔を向けると、ジェニーがすっと視線を逸らした。
「まだ、その顔で微笑まれるのには慣れないの。ごめん」
「地味にショックなんだけど」
胸元を押さえて、大袈裟に肩を落とす。するとジェニーは、耐えきれなくなったように、また吹き出した。
「だって、見た目は完璧なシノン殿下なのに、喋っている内容がいつものナナリーなんだもの。頭がこんがらがりそうになるわ」
「こんがらがらないでくれ。俺の社会的信用がかかっているんだ」
シノンが、冷ややかな視線を送ってくる。
ナナリーの顔で、王子の社会的信用を心配している。その光景こそ十分に頭がこんがらがりそうだったが、そこまで口にすれば、また話が長くなる。ナナリーは唇を結び、ひとまず続きを待った。
「まあ、講義中の指名については、対策を考えてある」
シノンは制服のポケットから折り畳んだ紙を取り出し、ナナリーへ差し出した。
「それは?」
「今日の予定と、各講義で想定される質問への回答集だ。主な先生の指名の癖と、すぐには答えられないときの無難な返し方も書いておいた」
「模範解答! シノン殿下、天才すぎる!」
受け取った紙を開くと、細かな字が整然と並んでいた。講義の名前だけでなく、教本のページや、答えるときの注意点まで添えられている。
昨夜、自分が教本の難しさに絶望していた間に、彼はこれを用意してくれていたのだろうか。ありがたさに胸が温かくなったが、読み進めるにつれて、その温かさに別の不安が混じり始めた。
思っていたより、長い。
「喜ぶのは早い。それを覚えて使いこなせるかが、今の君の課題だ」
「朝から課題を増やさないでください!」
「声が大きい」
ギュスターの低い注意に、ナナリーは慌てて口元を押さえた。
「すみません」
背筋を伸ばし、王子らしいすまし顔に戻る。ジェニーは楽しそうに目を細めたが、机の上に置かれた回答集を見ると、少し表情を改めた。
「でも、実技はどうするの? 体格や魔力量が変わっても、身体の使い方までは急に変わらないでしょう?」
ナナリーはシノンを見た。
今度も、ポケットから何か出てくるかもしれない。実技用の手順書とか、簡単に成功させるための秘訣とか。できれば、読む量の少ないものがいい。
期待して待っていると、シノンは一度視線を落とし、それからこちらへ向き直った。
「実技は、ぶっつけ本番だな」
「えっ、まさかのノープラン?」
「君の感覚で、どこまでできるか分からない。手順は説明できるが、実際に魔力を流すのは君だ」
穏やかな微笑みを向けられても、少しも安心できなかった。
ナナリーは、広げた紙に目を戻した。午前の予定を指で辿り、一つ目の講義名を見つける。その隣には、丁寧な字で「実習棟」と記されていた。
窓の外で、始業を知らせる鐘が鳴り始めた。
今朝、三人もの学友から「今日の講義を楽しみにしている」と言われたことを思い出し、ナナリーは回答集を握る指に力を込めた。
「殿下。一限目から実技だって、今知ったんですけど」
シノンは、まだあの穏やかな笑みを浮かべていた。王子らしい笑顔とはこうするものだと手本を見せられているようで、ナナリーには、それが余計に恨めしかった。




