26 王子様は、登校するだけでも忙しい
新学期の朝、王家の紋章がついた快適すぎる馬車を降りて、ナナリーは王立魔術学院の門を仰ぎ見た。休暇前には随分立派に見えた門が、今日は少し小さい。見慣れた建物まで、見る者の背丈によって印象を変えるものらしい。
これまで何度もくぐってきた門なのに、シノンの身体だと、上部を飾る魔術陣まではっきりと見える。いつも自分を見下ろしていた石造りの獅子とも、今日は少しだけ対等な気持ちになれた。
ただし、門の向こうで待ち構えていた人々とは、到底対等になれそうになかった。
「シノン殿下、おはようございます!」
「お身体は、もうよろしいのでしょうか?」
「本日の講義でご一緒できることを、楽しみにしておりました」
次々と挨拶をされ、ナナリーは笑顔でうなずいた。
学院に着いたばかりなのに、もう三人と話している。普段なら、ジェニーを見つけるまで誰とも口を利かずに済む日もあるのに、今は自分の歩く場所だけ、祝祭のパレードのような賑やかさだった。朝の涼しい風が吹いているというのに、人が集まるにつれて、襟元まで暑くなってくる。
「落雷の影響を受けられたと耳にしました。大丈夫なのでしょうか」
「え」
喉の奥で、小さな声が跳ねた。
固まったナナリーの前で、生徒たちが「本当だったんだ」と囁き合う。貴族の耳の早さなのか、それとも王子の動向がそれほど注目されているのか。どこまで事情が広まっているのか分からず、浮かべていた笑顔が少しずつ強張っていった。
そこへ、黒いローブを翻した男子生徒が、熱のこもった眼差しで歩み寄ってきた。
「殿下、先日の論文にあった魔術陣の展開法について、ぜひご見解を伺いたく!」
その言葉をきっかけに、いかにも賢そうな生徒たちが、次々と問いを重ねてくる。
「今期の、隣国との魔道具関税の改定については、どのようにお考えでしょうか?」
「本日の魔術理論の講義では、殿下はどのような術式をお考えなのですか?」
「えっ、あ、ええと」
答える隙すら与えてもらえない。もっとも、隙を与えられたところで、答えられる気はしなかった。
彼らは、成績上位者だけに許される金のラインが入ったローブをまとい、目を輝かせて王子の見解を待っている。最下位付近をうろうろしているナナリーにとっては、質問のどこが分からないのかを説明するだけでも、相当な時間が必要だった。
答えに窮して、へらへらと苦笑いを浮かべる。すると一人が、感極まったように胸へ手を当てた。
「体調が万全ではない中、我々の問いにまで耳を傾けてくださるとは」
違う。何も思いつかず、口が動かないだけだ。
しかし訂正すれば、別の問題が起こる。ナナリーは曖昧にうなずくしかなく、その頷きに励まされたのか、後ろにいた生徒までもう一歩近づいてきた。
健康を取り戻した王子に感動してくださるのはありがたいが、できれば自分の教室へ向かってほしい。こちらも教室へ行かなければならないし、今のところ、その教室がどこなのかさえ確かめられていないのだ。
「ナナリー、こっち」
少し離れた木の陰から、聞き慣れた声がした。
背の高さを活かして人垣の向こうを覗くと、ミルクティー色の髪が見えた。ジェニーがこちらを見上げ、困惑と呆れを混ぜたような顔で肩をすくめている。助けてほしいのはこちらなのに、その顔には「何をやってるの」と書いてある気がした。
隣には、黒髪のギュスターがいた。いつもシノンと行動を共にしている彼は、なぜかこちらよりもジェニーのほうを気にしている。何か言いかけては口を閉じるその様子を見るに、隣に立たれて、どう接していいか分からないのかもしれない。
そんなギュスターの背中を、ジェニーがぐいぐいと押した。ギュスターは一度彼女を振り返り、それから眉根を寄せて人垣の中へ入ってくる。
「そこまでだ。殿下は病み上がりでいらっしゃる。これ以上の長話はお身体に障る」
よく通る声に、生徒たちが一斉に顔を上げた。
「申し訳ありません!」
「そうですね。お身体に差し支えがあっては」
人垣が、ようやく緩んだ。ギュスターはナナリーの腕を掴み、そのまま颯爽と歩き出す。
頼もしすぎる背中だった。けれど今の高い視点からは、彼の耳たぶがほんのり赤く染まっているのもよく見える。ナナリーは木の陰にいたジェニーの姿を思い出し、助けてもらったお礼に、そこには触れないでおくことにした。
*
それぞれが信頼する学友に、入れ替わりの事情を打ち明けたのは昨日のことだった。ナナリーはジェニーに、シノンはギュスターに話した。
ジェニーは最初、冗談だと思ったらしい。けれど、二人だけで買いに行った菓子の話をした途端、すっと真顔になった。ギュスターのほうは、シノンと何か短く言葉を交わしたあと、「面倒なことになったな」とだけ言ったそうだ。
その面倒なことが、今日から本格的に始まる。
ギュスターに連れられて、ナナリーは校舎の奥へ向かった。教室棟から少し離れた場所に、王族専用の小さな休憩室があるという。
「人目を避けて休める場所が要るからな」
ギュスターの説明に、ナナリーは先ほどの人垣を思い出した。あれが毎日続くのなら、扉を閉めて一人になれる部屋くらい用意されていて当然だ。ほんの少しだけ、シノンに同情した。
「ここだ」
扉が開くと、庭に面した窓から柔らかな光が差し込んでいた。外の賑わいは遠く、机の上には水差しとグラスが整然と並んでいる。ここへ来て、ようやく新学期の朝を落ち着いて迎えられそうな気がした。
中には、すでに二人の少女がいた。
一人は、ミルクティー色の髪を揺らして振り返ったジェニー。そしてもう一人は、うぐいす色の髪に金色の瞳を持つ、ナナリーの姿をしたシノンだった。
彼が着ているのは、いつも自分が着ていた制服だ。髪を結んだ淡い色のリボンも、教本を入れた鞄も同じ。それなのに、背筋がぴんと伸びているだけで、見慣れたはずの自分が、随分としっかり者に見えた。
あの人なら、きっと忘れ物などしないのだろう。
まさか自分の姿を見て、そんな感想を抱く日が来るとは思わなかった。




