22 謎のカラスが乱入しました
「使い魔が出てきていないから、何も起きていないとは限らない。ジョルジュもそう言っていただろう?」
シノンが、ゆっくり言った。
「そこは聞いていました。でも、私が何かを間違えたことと、殿下と入れ替わったことは、まだ別のお話でしょう?」
ナナリーはテーブルの本へ目を落とした。
最後まで読めない術を始め、終わらせ方も分からないまま片づけた。それが軽率だったことは認める。母に取り上げられた本を、こっそり回収したことについても、今この場で追及されたら謝るしかない。
けれど、本から飛び出した使い魔に、王子と入れ替えられたわけではないのだ。
「私が始めた術で殿下に何が起きたのか、まだ分かっていませんよね。叱られる理由が増えていくのに、そこだけ説明がないのは、ちょっと困ります」
隣で、ジョルジュが額へ手を当てた。
「お前は、そういうところだけ話を整理するな」
「大事なところでしょう。全部私のせいでしたって謝った後に、実は違いましたとか言われても、謝った分は戻ってこないもの」
説明を求めてシノンを見ると、彼はすぐには答えず、閉じかけていた本をもう一度テーブルへ広げた。
「確かに、この術と入れ替わりがどう関係するかは、まだ分かっていない」
「でしょ?」
「だが、危険な使い方をしたことは、変わらない」
「そこは、反省しています」
同じ言葉を繰り返すと、シノンが膝の上へ視線を落とした。ナナリーもつられて見る。ドレスの上で握り込まれた手――ナナリーの手は、指の節が白くなっていた。
シノンは少し眉を寄せ、手をほどいてから息を吐いた。
「さっきの言い方は、強すぎた。すまない」
思いがけず謝られ、ナナリーは背筋を伸ばした。
「いえ、その。私も、叱られたくなくて少し格好をつけたから、おあいこです」
「どの辺りを?」
兄が、すかさず聞いてくる。そこは聞き流してほしかったが、今更、古代魔術への学術的な関心を押し通すのは難しそうだった。
「使い魔を召喚したのは、試験勉強をしていたら、急に別のことがしたくなったから」
正直に告白すると、ジョルジュの手が額から目元へ移った。
「だったら、最初から掃除すればよかっただろう」
「そこは、何となく勉強もしなくちゃって思ってたから」
「つまりお前は、現実逃避に全力だったというわけだ」
その通りだったので、反論をやめた。
「どうして召喚をしたかったかについては、もういいよ」
シノンは、もう責める口調ではなかった。ナナリーが顔を上げると、彼は本の一節へ指を置いていた。
「君が試した箇所を、もう一度確かめよう。何も現れなかった後、変わったことは?」
「特には。お腹が空いたので、お菓子を食べて」
「それは、普段と同じだな」
ジョルジュがすかさず口を挟む。
ナナリーは非難がましい目を兄へ向けたが、訂正しようと口を開くより先に、窓の方で音がした。
硬いものがガラスを叩くような音に、三人が同時に振り向く。
窓の外に、一羽のカラスがいた。
艶のある黒い羽に、丸い目。窓枠へ止まり、こちらを覗き込んでいる。ナナリーと目が合うと、嘴でガラスを二度叩いた。
「窓、開けろ」
ナナリーは動きを止めた。
カラスが喋った。しかも、挨拶もお願いもなしに、窓を開けろと言った気がする。
「今、何か言いました?」
「俺ではない」
シノンも窓を見ていた。
「お兄様?」
「何の話だ?」
兄の返事を聞く間に、カラスがもう一度、ガラスを叩いた。
「聞こえてるだろう。早くしろ。いつまで外で待たせる気だ」
ナナリーはゆっくり立ち上がった。
念話というものがあるのだから、鳥の声が人の言葉に聞こえる魔術もあるのかもしれない。そう考えれば、驚くことではない。驚くことではないが、今この部屋で起きてほしいことでもなかった。
窓の留め具を外し、少し開ける。
カラスはすぐに隙間を抜け、部屋の中へ飛び込んできた。ナナリーの肩すれすれを通り、テーブルへ降りる。古い本の上へ遠慮なく爪を置き、黒い羽を畳んだ。
「ようやく、話ができる。お前ら、ごちゃごちゃ考えすぎなんだよ」
その声を聞いて、ナナリーは窓から離れられなくなった。
雨の庭と東屋、そしてシノンの向こうを横切った黒い翼。落雷の前に聞こえた声が、耳の奥へ蘇る。
「もしかして、東屋にいたのって、あなた?」
「いたぞ」
カラスは、何でもないことのように答えた。
「ようやく候補が決まったと思えば、人間だ。おまけに雷まで落ちてきた。呼ばれる側も、楽ではないんだけどな」
「呼ばれる側?」
ナナリーはカラスのいるテーブルへ戻りながら尋ねた。
シノンもあの日のことを思い出したのか、ソファに座ったまま腕を組み、カラスを見つめている。ただ、ドレス姿で脚を開いているため、妙に豪快な態度に見えた。人前では脚を閉じるよう育てられたナナリーとしては、自分の姿でそうされるのは、あまりいい気分ではない。
「何がいるんだ?」
ジョルジュが、二人の顔を交互に見ながら尋ねた。
「カラスが」
「どこに」
「本の上に」
兄の視線が、カラスの足元へ落ちた。
「僕には見えない」
ナナリーはシノンを見た。彼が小さく頷く。
「俺には見える。声も聞こえる」
「仮契約でつながった二人だけだ。他の人間に姿を見せる必要はない」
カラスが言った。
随分便利な仕組みだった。ただし、この場で便利なのはカラスだけで、兄へ説明する手間は、こちらが引き受けなければならない。
「お兄様、カラスが言うには……って、ちょっと待って!」
言い切るより早く、カラスが翼を軽く広げた。
黒い羽から、細い煙のようなものがこぼれる。漆黒の煙はひとすじに伸び、そのままジョルジュの鼻先へ流れていった。
「な……っ?」
ジョルジュが目を大きく見開いた。次の瞬間、身体がぐらりと傾き、糸が切れた人形のようにソファへ倒れ込む。
「お兄様!」
「おい、何をした!」
ナナリーの悲鳴と、シノンの鋭い声が重なった。
ナナリーは兄の肩へ手を伸ばした。呼びかけても返事はないが、胸は静かに上下している。シノンもドレスの裾を押さえ、勢いよく立ち上がった。
カラスはどこ吹く風で、嘴を使って羽を整えている。
「落ち着けって。ちょっと眠ってもらっただけだ。仮契約でつながったお前ら以外の前で、べらべら喋られても鬱陶しいし、だいいち、この真面目そうな兄貴にいちいち説明してたら、日が暮れるだろ?」
「だからって、いきなり気絶させるなんて!」
「死にやしないさ。小一時間もすれば起きる」
カラスは爪先で古本の角をとんとんと叩くと、琥珀色の目で二人を見据えた。
「それより、本題だろ? 一体、お前らがどうして入れ替わったのか。人間同士のぬるい会話に、時間を割いている暇はないはずだぜ」
ナナリーは兄の肩へ手を置いたまま、カラスを見た。
その嘴の端が、不敵な笑みの形に持ち上がったように見えた。




