20 試したけど、何も出なかった(シノン視点)
マリアナが手配した医師の診察により、ジョルジュとナナリーの身体には特に大きな問題はないと判断された。
ジョルジュの残る咳については、とにかく喉を休めるようにと指示が出た。原因を知っているシノンとしても、その診断には全面的に賛成だった。
診察を受けたサロンで二人きりになると、ジョルジュは食堂からこっそり持ち出してきた小さな皿を差し出してきた。
「部屋でいただくと嘘をついて、下げてもらいました」
そこに載っていたのは、朝食で食べきれなかった三つ目のパンだった。
「これは、君が食べてくれ」
「殿下、それはできかねます」
「君の合図通りに食べただけだぞ。それなのに、皿が空になる前に追加された。正直、もう一口たりとも入らない」
シノンが皿を押し戻すと、ジョルジュはそれをすんなりと押し返してきた。
「妹でしたら、食べ終える前に次の分を確保しますので……その動きを真似てお勧めしました」
「本当に、この華奢な身体で毎朝パンを三個も食べているのか?」
「はい。普段は三個、多い日は四個です。ただ、一個目が残っているうちに三個目が届いたのは、さすがに僕も想定外でした」
ジョルジュは真顔で言い放つと、すっと視線を逸らした。
シノンは深々とため息を吐き、自分の手元――いや、ナナリーの華奢な手元を見つめた。薄手の袖口から覗く手首は細く、こんな小さな身体のどこにパン三個分の容量があるというのか。
「あと、文句を言えと言われても、何に言えばいいか分からない」
「そうですね。あの場でしたら、フルーツがないことでしょうか」
「あの量を食べて、まだフルーツも食べるのか?」
「ナナリー曰く、彼女には別腹というものがあるらしいです」
シノンは腕を組みかけて、ドレスの袖に引っかかる飾りへ目を落とした。仕草にも、まだいちいち注意が必要だった。
「本人からも聞いておこう。君の説明だけだと、彼女はなかなか寝台から起きず、食べ続け、勉強には嫌な顔をするという人間になってしまう」
「決して、それだけではありません」
「ほかには?」
ジョルジュが口を開き、少し考えてから閉じた。
兄ですら即答できないらしい。
このままでは、ナナリーの人物像が「朝に弱く、よく食べ、勉強を嫌がる伯爵令嬢」で完成してしまう。本人の名誉のためにも、続きは彼女がいる時に聞くことにした。
ジョルジュには、この後、魔術師団の仕事があるという。出かける前に、ジョルジュはもう一度念を押した。家族から何か聞かれたら、無理に話を合わせず、後で確認すると答えるように、と。
「本日も、王城への用事を作ってみます。殿下と妹が直接お話しできた方が、よいでしょうから」
「助かる」
「それまでは、お部屋でお休みください」
「そうするよ」
王城内にある魔術師団に出勤するジョルジュを玄関で見送り、言われた通り部屋に籠もることにした。
毎日の公務と書類仕事、学業の先取りと、絶え間ない政治的駆け引き。息もつけず追われることが当たり前な自分にとって、何もしなくていい時間などいつ以来だろうか。まさか他人の身体に入り込むという災難の副産物として、思いがけない休息を得ることになるとは。
これは天から降ってきた休日だと、心の中で呟きながらナナリーの部屋へと足を向ける。
ところが、部屋へ戻る階段の途中で、息が上がった。
昨日も歩きにくいとは感じたが、それは靴のせいだと思っていた。今日は踵の低い靴を履いている。なのに、段を上がるにつれて脚が重くなり、呼吸が浅くなる。
裾を踏まないよう持ち上げているせいで、腕まで疲れてきた。
自分の身体なら、訓練場を走った後でも、この程度の階段で立ち止まったりはしない。今朝の支度で胴を締めすぎないよう頼んだのも、正しい判断だったらしい。
だが、そもそもの筋力の違いなのか、二階に上がる階段の途中で足が動かなくなった。
「ナナリー様、やはりお疲れですね」
後ろからついてきた侍女が、心配そうに声をかけてきた。
「少し、歩いただけで息切れが……」
「普段もこちらで、一度お休みになりますものね」
落雷の影響ですらなかったようだ。
シノンは踊り場の窓辺へ手をつき、静かに呼吸を整えた。部屋で休むように言われ、喜んだのも束の間のこと。そこへ到着するにも、途中で休憩が必要だとは。
「お飲み物をお持ちしましょうか」
「部屋へ戻ってからでいい」
侍女が目を瞬かせたので、言い直す。
「お部屋で、お願い」
身体と口調を同時に変えるのは、思っていたより忙しい。王子としての講義も報告もない一日なのに、まだ自分の部屋へ戻ることさえできていない。
なんとか部屋にたどり着き、人払いをしてから扉を閉めて椅子へ腰を下ろす。
白と淡いピンクで揃えられた室内には、机にも鏡にも花や小鳥が彫られていた。
昨夜は疲れて、よく見ないまま寝てしまったが、改めて眺めると、家具の一つ一つがずいぶん可愛らしい。
この部屋で彼女は、勉強を嫌がり、菓子を隠し、兄に言い返しているのだろうか。目の前の穏やかな小鳥の彫刻と、夜会の夜に聞いた兄妹の口論が、なかなか結びつかない。
鏡へ目を向けたところで、朝、甥に引かれたリボンが少し曲がっていることに気づいた。
手を上げ、直そうとする。だが、どのピンがどの髪を留めているか分からず、触るほど別のところが緩んできた。
侍女を呼ぶか。それとも、もうすぐ横になるのだから、このままでいいか。
少し迷い、触るのをやめた。本人に返す頃までには、髪の扱いも少しは覚えておきたい。剣の稽古をしてきた手が、リボン一つ整えられないというのは、どうにも情けなかった。
窓から風が入り、机の上の紙が揺れた。
押さえようと立ち上がると、机の端に積まれた本が目に入る。学院の教本に、読みかけらしい小説。その下へ、一冊だけ、ひどく古びた本が差し込まれていた。
背表紙の文字は薄れているが、装丁には魔術書によく使われる模様がある。
シノンは手を止めた。
私物を勝手に読むべきではない。ただ、今は彼女の代わりに生活している。勉強の進み具合くらいは確認しておいた方が、家族に聞かれた時も困らないだろう。
そう考えて背表紙を確かめると、小説の方には、明らかに学院の課題とは違う題名が記されていた。
『使い魔フクロウの事件簿〜名探偵魔術師は喋らず語る〜』
題名だけ確認して、中身は見ないことにした。
古い本を少し引き出した拍子に、間から細い紙が落ちる。机へ拾い上げると、そこには見覚えのある、丸くてころころした字が並んでいた。
――試したけど、何も出なかった。
その下には、甘い菓子を思わせる小さな落書きがある。
シノンは本へ視線を戻した。
「試した、とは何を?」
顔を近づけ、表紙に残った文字を読み取った。
「使い魔の、召喚?」
ページを開くと、見慣れた教本の術式とは違う、古い形式の魔術陣が現れた。余白には、分からない言葉を調べたらしい書き込みがある。その横へ「ここ長い」「これも覚えるの?」と感想まで添えられていた。
読むだけでも、本人の声が聞こえるようだった。
けれど、ページを進めるうちに、シノンは落書きよりも、本文の方へ注意を向けた。
ただの召喚術ではない。呼び出したものとの契約について、細かな説明がある。術式の一部には、相手と術者の魔力を結びつける構造が使われていた。
夜会の夜、ジョルジュが検査した、身体から互いへ伸びる光を思い出す。
似ていると断定するには、知識が足りない。だが、何も関係がないとして机へ戻すには、気にかかる部分が多かった。
さらにページをめくったところで、指が止まった。
説明が、途中で途切れている。
その次は、もう裏表紙の内側だった。綴じ目をよく見ると、紙が残っている。終わりの何枚かが、なくなっているのだ。
シノンは最初へ戻り、書き込みと術式をもう一度確かめた。
「彼女は、これを試した」
最後の説明が欠けている、この本で。
机へ本を置き、しばらく見つめる。夜会の夜、ジョルジュが妹へ説教をしていた時は、敬語へ切り替わる様子が少し面白かった。今なら、襟元へ視線を固定してでも話を続けた兄の気持ちが分かる。
シノンは机の引き出しから便箋を一枚取り出した。
まずジョルジュへ知らせる。その上で、ナナリー本人にも、どこまで、何をしたのか聞かなければならない。
引き出しを閉めようとすると、奥に小さな包みが見えた。薄紙の内側から、焼き菓子の甘い匂いが香ってくる。
包みには、二重の円の中に六角形の雪の結晶と時計の歯車を組み合わせた、繊細な図形が丁寧に描き込まれていた。
対象の有機物の状態をそのまま固定する――つまり、焼き立ての熱も水分も味も一切損なわずに保存する、高度な『時間凍結』の鮮度保持魔術式のようだ。
「……隠した菓子に、これほど複雑で精密な魔術式を付与しているのか」
シノンは呆れ果てると同時に、思わずため息を漏らす。
本来なら王城の宝物庫や、高級貴族の極上ワインの熟成防止にでも使われるような技術だ。構成された第一層の防菌結界から第三層の魔力小循環に至るまで、寸分の狂いもなく組み上げられている。
勉強や召喚術は嫌がり、教本の余白に「ここ長い」などと文句を書き散らしていた人物が、お菓子を美味しく保存するためだけに、ここまでの精密な魔力制御と術式展開を完璧にこなしているのだ。
「勉強という言葉に嫌な顔をするくせに、こういう情熱だけは人一倍あるらしいな」
呆れるべきか感心するべきか分からず、シノンは苦笑しながら包みをそっと元に戻し、引き出しを閉めた。
さらに別の引き出しを開ければ、そちらにも包みがあった。机の横の籠には、菓子店の名が入った袋まで置かれている。そのどれもに、鮮度保持の魔術がきっちりかけられていた。
ジョルジュの説明は、少なくとも菓子の保管場所については正しかったらしい。
シノンは菓子に触れず、便箋へ向き直った。自分の筆跡でジョルジュの名を書いたところで、扉が叩かれる。
「ナナリー様。お茶をお持ちしました」
本と便箋を重ね、ひとまず手を離す。
「どうぞ」
入ってきた侍女が、机の上を見た。その視線が本へ移り、シノンの顔へ戻ってくる。
「お勉強をなさっていたのですか?」
「少し、読んでいただけ」
「まあ」
その声に、嫌な予感がした。
「まだ、お休みになるよう言われたばかりなのに。奥様へお知らせしてまいりますね」
「待って。知らせるほどのことでは」
「進んでお勉強なさるなんて、やっぱり落雷の影響が残っている証拠ですわ」
侍女は心配そうに眉を寄せた。
先ほど帰ったばかりの医師が、もう一度呼び戻されるかもしれない。シノンは昨夜渡された紙の四番を思い出し、開いていた本を閉じた。
「やっぱり、勉強は嫌い。今日はもう、やめるわ」
言い慣れない言葉が、自分の声より少し高い声で部屋へ響いた。
侍女の表情が、ほっと緩む。
「そうですとも。お茶とお菓子で、ゆっくりなさってください」
正解するたび、自分から遠ざかっていく。
シノンは差し出された皿を受け取り、ジョルジュ宛ての便箋を本の下へ隠した。欠けた召喚書について知らせる前に、まず自分が療養に専念していると、屋敷の人間には思ってもらう必要がありそうだ。
皿には、小さな焼き菓子が三つ載っていた。
朝食の三つ目のパンを思い出しながら、シノンは一つだけ手に取った。ナナリーには、この本についての説明と、おかわりを頼んでも苦しくならない方法を、両方聞いておく必要があった。




