19 伯爵令嬢の一日は、静かではない(シノン視点)
入れ替わって、二度目の朝だった。
ドラクロワ伯爵家の令嬢は、朝、起きただけで褒められることに気付いた。
「まあ、ナナリー様。お声がけする前にお目覚めになるなんて」
寝台のカーテンを開けた侍女が、嬉しそうに振り返る。
シノンは身体を起こしたまま、返事に迷った。窓の外はもう明るい。いつもの自分なら、とっくに朝の支度を終えている時間だった。
「目が覚めたので」
「昨日も、今朝も。やはり、お昼寝が必要かもしれませんね」
早く起きたのに、追加で寝かされようとしている。
ナナリーの普段の生活がどうなっているのか、聞けば聞くほど分からなくなった。枕元へ置いておいた紙を取り上げ、昨日ジョルジュから渡された注意事項へ目を落とす。
一、朝はすぐに起きない。
二、食卓では適度に話す。
三、お菓子を断らない。
四、勉強を勧められたら、まず嫌な顔をする。
王子として受けてきた教育と、何一つ一致しない。
特に四番は、本人のためにも訂正しておいた方がいいのではないだろうか。昨夜もそう言ったのだが、ジョルジュは「殿下のお考えは正しいです。ただ、今は妹の再現が優先ですので」と、真面目な顔で返してきた。
人の妹を再現するために、学問へ不満を示さなければならない。シノンは紙を伏せ、寝台から足を下ろした。
「本日のお召し物は、こちらでよろしいでしょうか」
侍女が広げたのは、淡い緑のドレスだった。王城へ着ていった黄色いものより飾りは少なく、裾も短い。
「ああ、それで」
「ナナリー様?」
「ええ。それでお願い」
言い直すと、侍女は頷き、衝立の内側へ服を運んだ。
着替えに手伝いが必要なのは、自分の身体でも同じだった。けれど、侍女が寝間着へ手を伸ばした瞬間、シノンは反射的に胸元を押さえてしまった。
「今日は、できるところまで自分で」
「昨日もそう仰いましたね。まだお身体が本調子ではないのですから、ご遠慮なさらなくても」
遠慮というには、事情が複雑すぎる。
結局、薄い肌着まで自分で着替えてから、侍女を呼ぶことにした。身体へ不用意に目を向けないようにすると、袖を見つけるだけでも手間がかかる。誰の身体を着替えさせているのか、という問題を考え始めれば、なおさら進まなかった。
できるだけ丁寧に扱っていることは、ナナリーにも分かってほしい。ただし、そのためにどれほど時間を要したかまで説明する必要はないだろう。
「では、こちらを整えますね」
侍女が後ろへ回り、胴を支える下着の紐に手をかけた。
少し引かれただけで、シノンは背筋を伸ばす。
「待って」
「きつうございますか?」
「今くらいで。今日は、これ以上は」
「承知いたしました。療養中ですものね」
ここでも療養が役に立った。落雷に遭ったのは災難だったが、事故の影響という説明だけで、助かることがずいぶんある。
ドレスを着せてもらい、椅子へ座ると、今度は髪の支度が始まった。
鏡の中には、うぐいす色の髪を肩へ流した少女がいる。梳かすだけで終わるかと思ったが、侍女は髪を分け、編み、細いピンを差し込んでいく。その間も、別の侍女がリボンと髪飾りを持ってきた。
「こちらの方が、お顔が明るく見えますね」
「ですが、奥様は真珠のものをと」
「では、こちらを合わせて」
シノンは椅子の上で、なるべく動かずに待った。
首を傾けると注意され、鏡をよく見ようとしても注意される。ようやく片側が仕上がったところで、もう片側にも同じ工程が始まった。
令嬢を待たせるのは失礼だと、教わってきた。その教えについては、今後、これまで以上に厳密に守ろうと思った。ここまで準備してきた相手を、立ったまま待たせるべきではない。
「お綺麗になりましたよ」
ようやく告げられ、シノンは鏡を見た。
確かに整っている。しかし、完成するまでの時間を知ってしまうと、夜会で気軽に褒めていた「素敵な髪飾りですね」の一言だけでは、何か足りない気がした。
*
ジョルジュから聞いた話によると、ドラクロワ伯爵家の領地を切り盛りしているのは、長兄のヴィクトールだという。普段は、緑豊かな領地の本邸で、妻と子と暮らしているらしい。
隠居を心待ちにしている両親は、領地と王都の屋敷を行き来する、気ままな二拠点生活を送っている。王都のタウンハウスを日頃の住まいとしている家族は、魔術師団に勤めるジョルジュと、魔術学院へ通うナナリーの二人だけだった。
ただし、現在は華やかな社交シーズンの真っ只中。ヴィクトールも妻と幼い子どもを連れ、王都の屋敷に滞在しているという。
領地を守る長兄に、王都で実績を重ねる次男、そして気ままな両親と末娘。シノンの知る貴族の家々と比べても、いかにも伯爵家らしい暮らしぶりだった。
食堂へ入ると、家族が顔を上げた。
「おはよう、ナナリー。よく眠れた?」
母親のマリアナが席を示す。シノンは昨日教わった通り、父親へ挨拶し、長兄のヴィクトールと、その隣の義姉と、彼女に抱かれた甥にも頭を下げた。
「おはようございます。皆様も、よくお休みになれましたか」
食卓が静かになった。
先に席についていたジョルジュが、ゆっくり紅茶を置く。その表情は、今の挨拶に対する修正箇所を、頭の中で書き留めているように見えた。
「ナナリー」
父親が身を乗り出した。
「まだ、頭が痛むのか?」
「いえ。痛みはございません」
「母上、やはり先生を」
ヴィクトールまで母親へ顔を向けた。
シノンは椅子へ座りながら、昨夜の注意事項に五番を追加する必要を感じた。朝の挨拶で、家族の睡眠を気遣ってはいけない。
「昨日も診ていただいたばかりですのに」
義姉が穏やかに言ったので、シノンはそちらを見た。
「今朝は昨日より、さらにお行儀がよくなってしまっています。やはり、すぐにでもお医者様に診ていただいた方がよろしいですわ」
味方ではなかった。
「寝起きだからだろう」
ジョルジュが口を挟んだ。
「まだ少し、ぼんやりしているんですよ。そうだろ、ナナリー」
「ええ。少し」
「普段は、ぼんやりしている時ほど、機嫌が悪いじゃない」
母親の指摘に、ジョルジュの口が閉じた。
最初に渡された紙だけでは足りない。ナナリーの人格は、朝の挨拶一つ再現するにも、相当な資料を必要とするらしい。
卵料理とパンが運ばれてきたので、シノンはひとまず食べることにした。これなら、余計な言葉を使わずに済む。
ところが、静かにパンをちぎっていると、隣でジョルジュが咳払いをした。
一回は、おかわり。二回は、ここで文句を言え。
食堂へ来る前に説明された合図だった。シノンはまだ半分残っているパンを見たが、ジョルジュの指示を尊重して、給仕へ声をかけた。
「パンを、もう一つお願い」
母親の肩から、少し力が抜ける。
「そう。食欲はあるのね」
どうやら正解だった。
シノンも安心し、卵を一口食べた。すると今度は、ジョルジュが二度、咳をする。
何に文句を言えばいいのだろう。パンも卵も美味しいし、スープは適温だった。テーブルの上を見回しても、欠点が見つからない。
「何か、足りないのか?」
父親に聞かれ、シノンは口を開いた。
「もう少し、パンを」
ジョルジュがこちらを見た。その目は非難がましいものだった。
咳を聞き間違えたわけではない。文句の材料がなかっただけだ。
「三つ目を? いいのよ。今日はしっかり食べなさい」
母親は嬉しそうだったが、シノンは、まだ最初のパンさえ食べ終えていなかった。
昨夜から分かっていたものの、この身体には、量が入らない。自分なら軽食で済ませる程度の食事で、もう十分だった。
向かいの義姉が、不意に眉を寄せた。
「ジョルジュ、咳が続いているけれど。夜会の夜、雨に濡れたのでしょう? あなたもナナリーと一緒に、お医者様に診てもらったらどうかしら」
「いえ、僕は平気です」
「だめよ。ナナリーより、あなたの方が顔色が悪いわ」
マリアナが侍女を呼ぶ。
「先生に来ていただきましょう。ナナリーも念のため、もう一度診ていただきなさい」
ジョルジュの視線が、シノンの手元の皿へ落ちた。そこへ三つ目のパンが、丁寧に置かれる。
妹らしく振る舞わせるため、わざと咳までしてくれた結果、ジョルジュまで医者に診てもらうはめになった。シノンは皿を見つめる。入れ替わりを隠すためにパンを増やしたら、今度は診察を受ける人間まで一人増えてしまった。
食卓の端から、小さな笑い声がした。
義姉の腕に抱かれた甥が、こちらへ手を伸ばしている。口元は柔らかな布で拭かれたばかりらしく、頬にはまだ少し食べ物がついていた。ジョルジュからの情報によると、昨年生まれたばかりらしい。
「ナナリー叔母様が気になるの?」
義姉が笑い、椅子を少し寄せた。
シノンは伸ばされた小さな手へ、指を一本差し出した。甥はそれを握り、満足そうに声を上げる。
ここは、間違えずに済んだらしい。
そう安堵した直後、小さな手が髪の横で揺れるリボンへ移った。
「待って、それは」
リボンを掴まれ、ぐいと引っ張られる。飾りとして結んであるだけかと思っていたが、どうやら髪まで一緒に編み込まれているらしい。頭皮まで容赦なく引っ張られ、シノンの首が傾いた。
「可愛いものが分かるのね」
義姉は微笑ましそうに見ているが、可愛いものを掴まれている本人は、普通に痛い。
かといって、赤ん坊の手を力ずくで外すわけにもいかない。シノンは甥の小さな指を傷つけないよう、リボンから一本ずつ慎重にほどいていった。剣の柄を握った相手の手を外すより、よほど神経を使う作業だった。




