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18 自分の顔は、案外扱いやすい

「昨日あんなことがあったのに、通したのか?」


「ええ、まぁ……」


「申し訳ございません、殿下。私がお止めするべきでした」


 エルネットが深々と頭を下げた。


「……いや、責めているわけじゃない。俺の姿をしたナナリー嬢が『通す』と言えば、君が拒むのは難しいはずだ」


 シノンはため息まじりにフォローを入れると、薄目でナナリーを見つめ返した。


「それで? 命がけの面会で、何か成果はあったんだろうな」


「もちろん! 彼女が持ってきたバラの花束から、昨夜ホールでぶつかった時と同じ甘い香りがしたの。だから、すぐジョルジュお兄様に渡すように頼んで、魔術師団へ鑑定に回してもらったわ」


 ナナリーが胸を張ると、シノンはわずかに眉をひそめた。


「まさかその香りを、直接吸い込んだのか?」


「と、とっさに息を止めたから大丈夫……だと思う。それに、彼女の反応を見る限り、犯人というよりただの恋する乙女って感じだったし」


「根拠は?」


「だって、私の顔を見た瞬間、焦る様子もなく百パーセント純粋なハートマークを飛ばしてきたもの」


「君の観察眼の基準が、非常に不安なんだが」


 シノンは片手で額を押さえたが、横で話を聞いていたジョルジュが静かに口を開いた。


「ですが、花束から媚薬の成分が検出されれば、媚薬の入手元まで辿れる可能性があります。ナナリーの判断は、あながち間違いではありませんでしたよ」


「お兄様……!」


 頼もしい実兄の援護射撃に、内心で涙を流した。


「だが、まだ検査中だ。彼女が犯人だとは決まっていない」


 即座に釘を刺された。咄嗟に言い返そうとしたが、シノンから質問が飛んできた。


「他に、彼女は何か言っていたか?」


「お花をありがとうって。それから、もう大丈夫だよって言いました」


「それだけ?」


「お茶には誘われました。でも約束はしていません。手は、少し重なってしまったけど」


 シノンが目を閉じた。案外自分の睫毛が長いことに気づき、少し気分が良くなった。


「ご安心ください。エルネット様が助けてくださいましたので、何もありませんでした。あと、ずっと息を止めていました」


「なぜ息を止める」


「ロザリー様の香りが、昨夜の瓶と似ていたので」


 シノンがようやく目を開けた。


「似ていた? 効き目は」


「ありませんでした。苦しかったのは、息を止めていたせいだけです」


 ジョルジュが、手元の書類から顔を上げる。


「ロザリー嬢から預かった花束を魔術師団に届けてくれたイザベル嬢も、特に体調の変化はなかった。ただ、確かに甘い香りが残っていたと言っていた」


「でしょ?」


 得意げに身を乗り出すと、ジョルジュがキッと睨んできた。


「イザベル嬢のように魔力の強くない一般の人間には影響が出ず、特定の魔力を持つ者にだけ作用する代物かもしれない」


「となると、ロザリー様のターゲットは、最初からシノン殿下だったってこと?」


「あるいは、その香りと『何か』が合わさることで初めて効果を発揮する複合型の媚薬か、だな」


 シノンが冷ややかな声で呟く。


 ナナリーは思わず胸を押さえた。硬い胸に違和感を覚えつつ、昨夜自分が体感した、あの理性を吹き飛ばすような激しい衝動を思い出す。あれが意図的に仕組まれた罠だったとしたら恐ろしすぎる。


 誰かを好きになる気持ちを操ってまで手に入れた恋なんて偽物だ。そんなズルをして振り向かせたって、虚しくなるだけだ。


「瓶の鑑定と一緒に、ロザリー嬢から本日持ち込まれたバラの花束も調べています」


 ジョルジュは淡々とした口調で、さらに言葉を重ねた。


「念のため、花束の持ち込み経路や、ロザリー嬢が最近立ち寄った魔道具店、あるいは接触した人物の洗い出しも並行して進めています。彼女自身が主犯ではなく、単なる運び役や実験台として利用されている可能性も否定できませんから」


「利用……? ロザリー様が?」


「ああ。もし『これをつければ、殿下が貴女に夢中になる』と吹き込まれて買わされたのだとしたら、彼女もまた被害者の一人だからな」


 ナナリーは、目の前でうっとりと頬を染めていたロザリーの顔を思い浮かべた。


 恋心は本物そうだった。それ自体は、誰もが等しく抱いていい気持ちだ。だから、悪いことではない。けれど、もしその純粋さを汚い目的のために利用する人がいるならば、それはとても悲しくて、許しがたいことだった。


「……やっぱり、そんなの絶対に許せないわ」


 ナナリーがギュッと拳を握り締めると、シノンが静かに身を起こした。


「怒るのは鑑定結果が出てからにしろ。今の君の課題は、犯人を追い詰めることではなく、これ以上その顔で余計なトラブルを起こさないことだ」


「分かってますって。ただ、もしロザリー様が利用されているなら、彼女も助けてあげたいって思っただけです」


「……お人好しだな」


 シノンは呆れたように息を吐いたが、うぐいす色の眉がほんの少し下がっているせいで、どこか困り果てたような柔らかさを含んでいた。


 どうも自分の顔は、冷たい表情というものが似合わないらしい。本人は至って真面目に冷酷な王子を決め込んでいるつもりなのだろうが、どこか隙があって毒気を抜かれてしまう。


 ナナリーがニヤニヤしながら見つめていると、シノンは視線に気づいたのか、照れ隠しのようにすっと手元の書類へ目を逸らした。


「……何を見ている」


「いえ、自分の顔って案外扱いやすいんだなと思って」


「調子に乗るな。とにかく彼女からの招待は、今後こちらで確認する」


「承知いたしました。必ずご家族を通して、お返事いたします」


 エルネットの答えを聞き、シノンは頷いた。


 その後は、困った顔をすることなく、次々と手紙を捌いていた。


 ナナリーは、隣に座る自分の姿を改めて眺めた。


 学院で見かけるシノンは、いつも優しく笑っていた。誰かに話しかけられても、嫌な顔をしたところは見たことがなかった。だから何も考えず、生まれつきそうしていられる人なのだと思っていた。


 けれど今日、自分は笑って返事をするだけで、庭へ行く約束をしかけた。眠そうな人を気遣えば、仕事を変える話になった。花を受け取った後には、どんな意味に取られたかまで確かめなければならない。


 シノンは笑う前に、いつもそんなことを考えていたのだろうか。笑った後も、言葉がどこまで届いたかを気にしていたのだろうか。


「殿下、疲れませんか」


 思わず尋ねると、彼が顔を上げた。


「何が?」


「こういうお返事をして、皆さんとお話しして、それから講義も聞いて。今日、減らしてもらった予定だけで、私はもう疲れました」


 シノンは手元の紙へ視線を落とした。


「慣れているから」


「慣れたら、疲れなくなるの?」


 彼が少しだけ困ったように笑う。その顔を見て、ナナリーは自分の問いへの答えが、もう出ている気がした。


 慣れていても、疲れるのだ。


「少なくとも、自分の限界値は知ってるつもりだ」


 シノンは手紙を重ねた。


「それに全部、一人で決めているわけでもない。エルネットや他の者に任せられるところは任せるようにしている。君も、分からない時はすぐ返事をせず、確認すると言えばいい」


「でも、それだと感じが悪く思われませんか?」


「後から約束を変える方が、相手を困らせるだろ」


 ナナリーは頷いた。返事を待ってもらうことも、王子の仕事の一つらしい。


 ジョルジュが次の診察の時間を確かめに席を外すと、エルネットもお茶を用意するため、隣室へ下がった。


 二人になって、ナナリーはもう一度シノンを見た。


「今日、殿下のお名前で、勝手にお約束をしなくてよかったです」


「そうだな」


「これからも気をつけます。お庭も、お茶も、知らない間に増やさないように。それから特定の女性を部屋に連れ込みません」


「それは助かる。特に最後のは、絶対守ってくれ」


 そう言って、シノンが微笑んだ。今度の笑顔は、少し気が抜けて見えた。ナナリーには見慣れたはずの顔なのに、自分が鏡に向かって笑う時とは、やはりどこか違っている。


「それと、今、何かしてほしいことはありますか?」


 シノンの眉が上がった。


「急に、どうした」


「私、自分がお腹が空いたとか、眠いとか、そんなことばかり気にしていたから。だから殿下にも、今したいことがあるんじゃないかと思って」


 彼はしばらくナナリーを見て、それから小さく息を吐いた。


「少し、何も聞かれずに座っていたい」


 ナナリーは口を閉じた。


 もう一つ聞こうと思っていたことがあったが、今は飲み込むことにする。代わりに、ソファの背へゆっくり身体を預けた。


 窓の外では、庭の木から雨の名残が落ちていた。シノンも隣で肩の力を抜き、膝に置いた手をほどいている。


 自分の部屋でこうして座るだけの時間を、彼は今日、どれくらい持てただろう。


 お茶を運んできたエルネットに、ナナリーは声を落として頼んだ。


「しばらく、二人とも休みたいです。お返事が必要なものは、後で教えてください」


「承知いたしました」


 侍女長が静かに退出すると、ナナリーはカップを手に取った。砂糖壺へ伸ばしかけた指を止めたが、シノンがそれを見て笑う。


「入れていいよ。今は誰も見ていないし」


 ナナリーは二杯の砂糖を入れ、音を立てないように紅茶を混ぜた。隣ではシノンが無糖の紅茶を飲んでいる。同じお茶でも好みは違うのだから、王子の一日を全てそのまま真似るのは、やはり難しそうだった。


 それでも今度は、勝手に予定を増やさずに済んだ。何もしない時間を少しだけ確保できたことが嬉しくて、ナナリーは次に浮かんだ質問も、紅茶と一緒に飲み込んでおいた。

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