16 王子様には、扇がついていない
「本日はお休みいただくよう、お願いしておりますが」
エルネットが告げると、イザベルは困った顔をした。
「お花だけでも、直接お渡ししたいと仰せです。王妃殿下へご挨拶にいらした折に、殿下のご様子を伺ったそうで」
ナナリーは窓辺の花瓶を見た。朝から見舞いの花が届き続け、部屋が少しずつ花屋へ近づいている。
個人的には、媚薬を落とした犯人は「ロザリーなのでは?」と疑う気持ちがある。ただ、瓶の持ち主かどうかも、中身を知っていたかどうかも、まだ分かっていない。
好奇心が旺盛なのはいいことだと、昨夜ジョルジュに言われた。
危険かどうかも確かめてから行動しろと言われた気もするが、シノン一筋らしいロザリーが彼を傷つけるはずがない――と信じたいところだが、情熱的な愛が明後日の方向へ突き抜けた結果があの怪しい瓶だとしたら笑えない。
もし本当に彼女が関わっているのなら、王子の姿をした自分と対面した瞬間、何かしら焦りや動揺を見せるはずだ。
だとしたら、探りを入れるくらいはしておいた方がいいかもしれない。
何より、シノンの周囲にいる女子を敵だと認定するロザリーに近づくには、今を逃したら二度とチャンスは訪れない気がする。
別にわざわざ近づく必要もないのだが、社交の場において魔術学院の女子は、シノンの学友だというだけで目の敵にされているという嬉しくない状況だ。そのせいで、シノンの動線をいちいちチェックして、料理のテーブルへ移動するタイミングを見計らうというのは、正直面倒だった。
ここは魔術学院の女子生徒を代表して、彼女についての有益な情報を仕入れる。そして今後、社交の場でロザリーの理不尽の犠牲者を減らすことも、王子の皮を被ったナナリーだからこそできる社会貢献の一つ。
ナナリーは、花瓶から視線を逸らす。
「エルネット、せっかくだ。お会いしよう」
エルネットの視線がこちらへ戻ったが、ナナリーは大きく頷いてみせた。
「本当によろしいのですか?」
「うん。せっかく足を運んでもらったのだから、そのまま返すわけにはいかないよ」
学院で見かけるシノンの真似をして、微笑んでみせた。
彼が笑うと、大抵のことは丸く収まる。彼を取り囲む輪の外から見たことがあるので、間違いない。案の定、エルネットとイザベルの二人が一瞬だけ息を呑み、直後に「承知いたしました」と深く頭を下げた。
あまりに効果てきめんすぎて、顔が引き攣る。
国宝級の美貌と、世界を包み込むような慈悲深き微笑み。学院の女子たちがこぞって黄色い声を上げる理由を、ナナリーは身をもって理解した。この顔で頼まれたら、大抵の人間は「ノー」と言えなくなるらしい。自分の顔ではないのに、なんだか無敵の武器を手に入れたような錯覚に陥る。
やがて入ってきたロザリーは、淡いピンクの薔薇色のドレスを着ていた。胸元にも髪にも小さな花が飾られ、抱えた花束までバラだった。頬まで赤く染まっているせいで、どこまでが贈り物で、どこからが本人なのか、最初の一瞬では見分けがつかないほどだった。
「殿下。お怪我をされたとうかがい、昨夜は心配で眠れませんでしたの」
眠れなかったにしては、顔の血色が良さそうに見える。
もちろん、眠れない夜の翌朝に、必ず目の下へ影を作る義務はない。
「こちら、少しでも元気になればと思い、お持ちいたしました」
差し出されたバラの花束の鮮やかな美しさに、ナナリーは一瞬だけ素で感嘆しかけた。しかし次の瞬間、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
花のようで、熟した果実のようでもある。昨夜、ホールでぶつかった時と、よく似た香りだった。
ナナリーは、とっさに息を止める。
同じ香りかどうかは分からない。分からないが、あの媚薬のせいでまた誰かに告白する羽目になるのだけは、絶対に避けたかった。
そこまで考えて、ふと重大な事実に気づく。
今の自分は「王子」なのだから、告白する相手など存在しない。いや、もし効果を発揮するとしたら、目の前にいるロザリーに向けてということになる。
それは困る。王子の身体でロザリーに愛を囁く自分を想像し、ナナリーはゾッとした。
「ありがとう」
息を吐きながら喋る。要するに吸わなければいいのだ。残りの空気を慎重に配分しながら、短く答えた。
「もう大丈夫だよ」
「本当ですか? お顔を拝見するまでは、気が気でなくて」
ロザリーが一歩近づいてきた。花束を受け取ろうとしたところ、彼女の手が、そのままナナリーの手へ重なる。甘い香りも、一緒に近づいてきた。
「殿下のお身体に、何かあったらと思うと」
「今の、ところは、何も」
入れ替わっている以外は、元気だ。そこを除けば、よく食べ、よく寝る、大変健康な王子だった。ただし現在、呼吸だけは自主的に止めている。
そろそろ限界が近づいてきたというのに、ロザリーは手を離さず、青い瞳を覗き込んできた。それから、はっとしたように頬へ手を当てる。
「まあ、殿下。お顔がこんなに赤く。もしかして、わたくしを見て、ですの?」
酸欠です、とは言えなかった。
ナナリーは顔を背け、窓の方を向いた。開いた窓の隙間から、ほんの少しだけ新鮮な空気を吸う。幸い、胸は昨日のように苦しくならなかった。今感じる息苦しさは、息を止めていたせいらしい。
窓から流れ込む空気を取り込み、息を整えたところで慎重に口を開いた。
「とても、印象的な香りだね。どちらで?」
「まあ。殿下が、わたくしの香りにご興味を?」
ロザリーの瞳が、きらりと輝いた。
「ふふ。それは、乙女の秘密ですわ」
片目をつむられた。手がかりは一つも掴めなかった。むしろ、何か別のものを掴ませてしまった気がする。
「お元気になられたら、母とご一緒にお茶でもいかがでしょう。わたくし、殿下のお好きなものを用意いたしますわ」
ナナリーの頭に、焼きたての苺タルトが浮かんだ。
しかし、答える前に朝のやりとりを思い出す。もしここで好きなお菓子を答えれば、タルトつきの訪問が決まってしまうかもしれない。
「お気遣いだけで、十分なので」
「まあ。では、わたくし一人で伺っても?」
どうして人数が減ったのだろう。
ナナリーは思わず、扇で口元を隠そうとした。けれど、いつも扇を置く辺りに伸ばした手は、上着の裾を撫でただけで手応えがない。
どうやら王子には、顔を隠すための便利な道具が用意されていないらしい。
「あの、今日はまだ」
「お疲れですのね。そうとは知らず、お引き止めしてしまって」
分かってもらえたと息をつきかけたところで、ロザリーはさらに一歩近づいた。香りが、もう一段濃くなる。ナナリーは再び息を止めた。
「少し、お支えいたしましょうか?」
支えが必要なのは足ではなく、断り文句と肺の方だった。
「ロザリー様」
エルネットの声が、二人の間へ入った。
「侍医より、本日は静かにお休みいただくよう申しつかっております。お花は大切に飾らせていただきますので」
ロザリーは名残惜しそうに手を離した。
「では、殿下。ご快復を、心よりお祈りしておりますわ」
優雅なお辞儀をして退出するまで、彼女はずっとこちらに向かって微笑んでいた。扉が閉まった瞬間、ナナリーは窓辺へ駆け寄り、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
生きている。別にロザリーを見ても、好きだとは思わない。
「お花って、受け取るだけでこんなに疲れるものなの?」
「本日は特に、お疲れになりやすいかと」
エルネットはナナリーから花束を受け取り、イザベルへ預けた。
「あ、その花。一応ジョルジュ兄さ……こほん。ジョルジュに確認してもらって欲しい」
「魔術師団のジョルジュ様ですか?」
イザベルが目を瞬かせた。その横で、エルネットの鋭い視線がナナリーに向けられる。
「……殿下。何か、そのお花に不審な点でもおありですか?」
「いや! そういうわけではないんだ。ただ、青バラといい、最近は魔術で品種改良された珍しい花が多いと聞くからね。ジョルジュならそういった鑑定も得意だろうと思って」
「左様でございますか。では、念のため魔術師団へ回すよう手配いたします」
一瞬ヒヤッとしたが、なんとか怪しまれずに危険な花束を隔離することに成功した。
窓の外に顔を出し、ナナリーは深呼吸とともに大きなため息を吐き出した。
冷や汗でシャツが背中に貼りつきそうだ。王子の皮を被って社交辞令をこなすだけでも命がけだというのに、身内に対する呼び方の癖まで警戒しなければならないなんて。
エルネットが人払いする声がして、背後で扉が閉まる音がする。
ナナリーが振り返ると、侍女長は立ったまま、真っすぐこちらを見ていた。
「殿下。ご確認したいことがございます」
背中が、自然と伸びた。
昨夜のジョルジュも、こんなふうに「確認」と前置きしてから問い詰めてきた。確認という言葉は丁寧なのに、聞くとなぜか叱られる前の気分になる。
「昨夜から、ご様子がいつもと違っていらっしゃいます」
「落雷の影響で」
「侍医の先生は、受け答えには問題がないと」
「受け答えはできていると思います」
「はい。ですから、少々気にかかるのです」
エルネットはテーブルへ視線を落とした。そこには先ほどナナリーが飲んだ紅茶がある。
「殿下は、お茶にはお砂糖をお入れになりません。ですが本日は、二杯お使いになりました。それから、朝のお支度を終えて戻られた時、ご自分のお部屋の扉を叩いていらっしゃいました」
ナナリーは両手を握った。
よその部屋へ入る前には、扉を叩くものだ。自分にとっては当たり前だったが、シノンの部屋へ本人が入るのに、そんな遠慮はいらないらしい。
「ご署名には、お花が咲いておりました」
「あれは」
「それに、先ほどから、ご自分のお言葉がどう受け取られるかに、驚いていらっしゃるように見えます」
「それは、その」
「昨夜、ドラクロワ伯爵令嬢をお部屋へお通しになったこともそうですが、あの方も、ご存じないはずのお席へ、迷わずお座りになろうとしておいででした」
そこまで見られていたとは。
ナナリーは言い訳を探したが、淡々と並べられる不自然な点の数々を、まとめて落雷の影響にするのは難しかった。
「エルネットさん」
「はい」
「少しだけ、待っていただけますか。ジョルジュお兄様と、ナナリー嬢に確認したいことが」
言い終える前に、自分で間違いに気づいた。
王子は侍女長を「さん」付けで呼ばない。そして、伯爵家の次男を「お兄様」とも呼ばない。
昨夜、数えるのをやめたはずのエルネットの眉がすっと上がった。今回は数える必要もなかった。一回で十分、決定的だったからである。
ナナリーは、今のは聞き流してほしいと、両手を揃えてお願いするしかなかった。




