15 王子様の一日は、暇ではない
「本日のご予定でございます」
エルネットが書類を持って、横に立った。
「家庭教師の講義と魔術師団へのご出席は、取りやめになりました。王妃様のお茶会につきましても、侍医の判断を待ってお返事いたします」
ナナリーはパンをちぎりながら、深く頷いた。
ジョルジュは本当に頼りになる。今度、ストレスを抱えた兄が夜中に苺タルトを食べたくなっても、母には黙っておいてあげてもいいかもしれない。
「ただ、お見舞いの品へのお礼と、延期したご予定についてのご確認がございます。ご無理のない範囲で、こちらへ目を通していただけますか」
置かれた書類を見て、パンを持つ手が止まった。
「これ、全部?」
「はい」
紙の束は、空になったパンの籠より高く積まれていた。予定を減らしたと聞いて安心していたが、どうやら減らした予定にも、それぞれ後始末がついているらしい。
病欠で試験を休んでも、結局は後から追試を受けなければならない。苦い記憶が蘇りかけたが、美味しい朝食の最中に考えることではないと、慌てて頭の中から「追試」の二文字を追い払った。
「お礼は、ありがとうって伝えてもらえれば」
「どのお品にも、同じようにお返事を?」
「うん。皆さん、ご親切だし」
「では、ご招待についても?」
「ご招待?」
エルネットが一枚の手紙を取り出した。見舞いの花について書かれた文章の最後に、元気になったらぜひ屋敷の庭も見てほしいとある。
「お庭なら、いいんじゃない?」
「承知いたしました。ご快復後にご訪問なさる旨を、お伝えいたします」
エルネットの横に立つロランの手帳に、「庭ならいい」と書き加えられたのを見て、嫌な予感がした。
「待って」
ナナリーはパンを皿へ戻した。
「今ので、行くことになったの?」
エルネットの目が、こちらへ向いた。
「殿下がお認めになりましたので」
「お庭が綺麗そうだなって思っただけで、そこまで決めたつもりでは」
「では、お見舞いへのお礼のみ、お伝えいたします」
「そうしてもらえると助かります」
ロランが「庭ならいい」の上に、きっちり二本線を引いた。
危ないところだった。庭を褒めただけで、外出の予定が一つ増える。知らない間に招待を受け続ければ、療養が終わる頃には、王都中の庭を回ることになりそうだ。
お花見くらいなら楽しそうだけれど、訪問先で浴びせられるお世辞や社交辞令に、王子として応じる労力を考えたら、呑気に花を愛でるどころではない。
ナナリーは次に取った手紙を、今度は最後まで慎重に読んだ。落雷に遭って療養中のシノンのために、珍しい青バラを贈ってくれたらしい。
「こちらのバラでございます。ロラン」
「は、はい!」
ロランが恭しく差し出した花瓶には、深海を思わせる、鮮やかな青いバラが一輪活けられていた。手紙の主は、ナナリーも名前を知っている、王都で指折りの権勢を誇るワイス侯爵家だった。
「青バラなんて初めて見たわ。とても綺麗ね……あ、綺麗だね。そうだな、『見事な青バラをありがとう』と添えておいてくれる?」
「殿下。そのお言葉ですと、『殿下は青バラの栽培事業を支持され、ワイス侯爵家の領地開発を後押しされるご意向である』と、先方に受け取られるおそれがございます」
「待って待って、なんでそうなるの?」
思わず身を乗り出す。エルネットは表情を変えず、説明を付け足す。
「青バラの栽培は現在、ワイス侯爵家とほかの有力貴族が利権を争っている事業でございます。殿下が特にお褒めになったという話だけが広まれば、その派閥への支持を示されたと受け取られることもございますので」
「ただ、綺麗な花だなって思っただけなのに」
「王子殿下の『お気に入り』には、それだけの意味を持たせようとする方もいらっしゃいます」
花の礼一つとっても、不用意に感想を述べてはいけないらしい。ナナリーは青バラをもう一度眺めた。たった一輪なのに、眺める前より随分重そうに見えた。
「では、お見舞いへの感謝をお伝えする形で、文面を整えます。こちらの別のお手紙には、殿下の署名をお願いいたします」
差し出された羽ペンを受け取る。
「試し書きはこちらでどうぞ」
「ありがとう」
試し書きにしては良すぎる紙へ、「シノン」と書いた。
そこに残されたのは、丸くてころころとした、見慣れた自分の字だった。おまけに、最後の払いはくるりと巻かれ、小花の形をしている。学院でノートの端に落書きをする時の、いつもの癖が出てしまっていた。
ナナリーは静かに紙を伏せた。シノンの顔も声も借りられたのだから、字だって貸してほしかった。
「お手がお疲れでしたら、本文は代筆いたします。署名は、お手の具合がよくなられてからでも」
エルネットの申し出が、いつもよりありがたく聞こえた。
「お願いします。今日は、その、手にも落雷の影響が」
「承知いたしました」
侍女長は問い返さなかった。ただ、伏せた紙を片づける時、一度だけそこへ視線を落とした。署名の先に咲いた小さな花の上で、その視線は少し長く止まっていた。
どんな雷も、王子の字に花を咲かせたりはしないだろう。ナナリーはエルネットの視線に気づかなかったふりをして、スープを飲んだ。
朝食の後も、静かに休むという予定は、なかなか始まらなかった。
昨日、庭で二人を見つけた近衛の一人が、扉の外まで見舞いに来たという。ナナリーは、助けてもらったのなら直接お礼を言いたいと、部屋へ通してもらった。
「昨夜はありがとうございました」
そう言うと、相手がひどく恐縮したので、慌てて言い直す。
「助かったよ。本当に」
「身に余るお言葉でございます」
若い近衛は、背筋を伸ばして頭を下げた。ナナリーより少し年上だろうか。目の下には、はっきりと疲れが残っていた。
「昨日から、ずっとお仕事?」
「夜の警備を終え、引き継ぎを済ませて参りました」
「じゃあ、もう休んでいいよ。ゆっくり寝てね」
近衛が顔を上げた。その目が、みるみる潤んでいく。
「殿下が……私の睡眠を、ご心配くださるとは」
「え、うん。眠そうだったから」
「なんと勿体ない。このご恩に報いるため、本日は一睡もせず、殿下のお傍をお守りいたします!」
「え、まさかの逆反応?」
思わず声が出た。寝てほしいと言ったのに、寝ない誓いを立てられてしまった。
「本日も午後より、こちらの区画を担当する予定でございますが、それまでの時間も、ぜひ」
向こうでエルネットが、静かに一歩近づいてきた。
「殿下。勤務の変更は、近衛隊長へご相談が必要でございます。休む場合も、休まない場合も」
ナナリーは近衛と侍女長を交互に見た。
眠そうだから寝てほしい。それだけの話だったはずなのに、勤務の変更が発生しようとしている。しかも、寝ない方向に。
「お仕事を変えるという意味ではなくて、休める時に休んでねということで」
「はっ。休める時に、休みます!」
近衛は感激したような顔で、深く頭を下げて退出していった。今度は伝わったようだが、あの勢いだと、休憩中も背筋を伸ばしたまま眠りそうだった。
扉が閉まると、ナナリーはソファへ座り、両手を膝に置いた。昨夜、兄へ休むよう言った時は、何の効き目もなかった。同じ言葉を使っているのに、相手が違うとこんなに事情が変わるとは。
「私……僕、そんなに偉そうに言った?」
「殿下のお言葉ですから」
エルネットは責める口調ではなかった。けれど、その答えを聞いて、ナナリーは途方に暮れた。
偉そうに言わなくても、王子が言えば命令になることがある。親切にしたつもりで、相手の仕事まで変えてしまうのでは、安心して眠ってほしいとも言えない。
ナナリーが口を開く前に、廊下からイザベルの声がした。
「エルネット様。ロザリー・バディスト侯爵令嬢が、お見舞いにいらっしゃいました」
ナナリーは顔を上げた。
昨日、香水瓶を落としたかもしれない令嬢だった。




