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『魔物の夜』2

 避難の道は、人でいっぱいだった。荷物を抱えた人。子どもを背負った人。誰かの名前を呼びながら走る人。母さんは僕の手を握り締めて離さなかった。その手は汗で湿って、震えていた。

 リディアは僕の隣を走っている。帯の剣が走るたびに腰にぶつかって、鈍い音を立てた。

 遠くで何か大きなものがぶつかる音がした。続いて誰かの叫び声。


「助けてくれ!」


 僕は足を止めた。

 リディアも同じだった。


「……今の」

「村の人だ」


 道の先を見る。人垣の途切れた少し先の空き地に、一人の村人とそれがいた。

 犬に似ている、と思った。次の瞬間、間違いだと分かった。

 肩の高さが、僕の胸まである。灰褐色の毛は背中で針のように逆立ち、筋肉がひとつ動くたびに、毛皮の下で束になって盛り上がった。地面を掴む前脚の先には、僕の指ほどもある爪が土に深々と食い込んでいる。

 魔物だった。

 村人は槍を構えていた。けれど穂先は魔物の身体に届いていない。魔物は四つ足で地面を踏み締め、低く身を伏せていた。口元から粘ついた唾液が糸を引いて垂れる。

 村人が槍を突き出す。

 魔物は首を横に振って穂先を躱し、そのまま槍の柄に噛みついた。


「くっ……!」


 村人が両手で槍を引く。魔物は離さない。前脚が土を削って、巨体がずるずると前へ滑ってくる。村人の靴が地面を掻き、背中が壁際へと追い詰められていった。


「このままじゃ……」


 リディアが呟いた。

 魔物が槍を大きく振り払った。柄が手から抜けて、乾いた音とともに地面を転がる。村人はよろめいて、尻餅をついた。

 魔物が一歩、近づく。爪が地面に食い込み、ぎりぃ、と嫌な音を立てた。

 僕の胸が強く締め付けられた。あの爪が振り下ろされたら、きっと助からない。

 母さんが僕とリディアの腕を掴んだ。


「行くわよ」

「でも、あの人が!」

「大人たちが助けに行くから!」


 母さんの声は、震えていた。

 けれど道の先には誰もいない。誰も来ない。

 村人は地面に手をついたまま、必死に後ずさっている。

 魔物が前脚を引いた。

 次の瞬間には、飛びかかる。そう思った。


「……っ」


 気づけば僕は走り出していた。


「イルヴァ!」


 リディアがすぐあとに続く。


「待ちなさい!」


 母さんの声が背中に飛んできた。でも止まれなかった。

 止まったら、もう二度と動けなくなる気がした。

 その場から逃げ始める人混みを掻き分け、右手を前へ突き出す。魔法陣を描く。半年前よりずっと早い。頭の中で形を思い浮かべると、光の輪が広がって、いくつもの文字が回り始めた。

 けれど魔物はもう飛びかかろうとしていた。


「――僕だって!」


 水の塊が投げつけるように飛び出した。

 魔物の肩にぶつかって、濡れた毛が大きく波打つ。巨体がぐらりと横へ流れた。

 跳躍の軌道が僅かに逸れる。振り下ろされた爪が、村人の顔のすぐ横を掠めて、地面に突き刺さった。土が跳ねる。


「今!」


 リディアが駆けた。魔物が顔を上げるより早く、その懐へ潜り込む。

 帯の剣を抜いた。鞘走りの音が、短く鳴る。刃が、魔物の前脚を浅く切り裂いた。

 その瞬間、赤い血がぱっと散った。その一滴が、リディアの頬にぴしゃりと張り付く。

 リディアの足が、一瞬止まった。剣を持っていない左手が、頬へ動きかけて途中で拳になる。

 木剣では血は出ない。どれだけ強く叩いても、痣ができるだけだ。リディアは、そうやって強くなってきた。

 本物の血に触れたのは、今が初めてだったのかもしれない。


「グルァッ!」


 魔物が吠えた。その声は、耳じゃなく、肋骨の内側を震わせた。

 リディアは唇を噛んで、剣を構え直した。


「今のうちに逃げて!」


 リディアが村人に叫ぶ。


「で、でも……!」

「早く!」

「助けを呼んでくるからな」


 村人は槍を拾う余裕もなく、転がるように立ち上がって何度も躓きながら走っていった。

 その背中を見送って、助けられた、と思った。

 けれど。低く、腹の底を震わせる唸り声が聞こえた。

 魔物がゆっくりとこちらを向く。

 前脚から血を流している。肩の毛は水でぐっしょり濡れて、獣臭い湯気が立ち昇っていた。それでも倒れるどころか、さっきよりもはっきりと僕たちを見ていた。

 黄色い目が、僕を捉える。

 そこにあるのは、怒りだった。そして僕たちを獲物として数える目だった。


「…………」


 喉が鳴った。

 怖い。想像していたより、ずっと、ずっと怖い。

 あれは、僕たちを殺せる生き物だ。頭で考えるより先に、そのことが身体へ流れ込んでくる。

 指先が冷えた。右手が勝手に震え出す。足が地面に縫いつけられたみたいに動かない。


「イルヴァ」


 リディアが隣に立った。

 声が震えている。それでも剣を両手で握り直した。


「私たちで、時間を稼ごう」

「分かった」


 返事をしたのに、声が上ずった。

 魔物が前脚を引く。身体を低く沈める。背中の筋肉がぎゅっと縮む。

 来る。そう思った瞬間、魔獣が地面を蹴った。

 土が砕けて、土煙が上がる。

 速い。さっきよりも、ずっと速かった。

 僕は魔法陣を描こうとした。いつもならできる。何度も練習した。けれど魔物が気になって上手くいかない。


「……っ」


 光の輪が歪んで、途中で弾け散った。

 爪が迫る。

 僕は横へ飛び込みながらなんとか避けた。


「もう一回……!」


 立ち上がり無理やり魔法陣を組み上げる。今度は火。光が集まって、頬を熱が撫でた。けれど狙いを上手く定められない。


「くっ……!」


 火を放つ。

 それは魔物の横を通り過ぎて、背後の地面を焼いた。焦げた土の臭いが、鼻を刺す。


「イルヴァ!」


 魔物が、こちらへ向きを変えた。その動きがあまりにも滑らかで、僕は一瞬何もできなかった。

 口が開く。黄ばんだ牙が並んでいた。舌の上で唾液が泡になっている。

 その口が僕へ迫った瞬間、リディアが横から割り込んだ。


「こっち!」


 剣が閃く。魔物は首を捻って刃を躱した。剣は毛皮を撫でただけだった。

 魔物の前脚が跳ね上がる。リディアは剣を立てて、それを受け止めた。

 爪と刃が噛み合って、甲高い音が響く。


「くっ……!」


 リディアの腕が震える。

 魔物は止まらない。前脚を押し込むたびに、リディアの身体が少しずつ後ろへ押されていく。靴底が土を削る。


「リディア!」


 僕は、手を向けた。でも魔法陣が出てこない。

 焦れば焦るほど、頭の中が白くなる。円の形も、感覚も、どうやって魔力を流すのかさえ、思い出せない。

 魔物の爪が剣の腹を滑って、リディアの肩へ近づいていく。


「早く……!」


 リディアが歯を食いしばった。

 僕は必死に息を吸った。水。水ならさっき出せた。同じものなら、できる。

 魔力を集める。ようやく魔法陣が現れた。水が生まれる。

 でも、狙いを定める前に魔物がリディアを弾き飛ばした。


「きゃっ!」


 リディアの身体が宙に浮いて、背中から地面へ落ちた。


「リディア!」


 魔物が僕へ向かってくる。四本の脚が地面を蹴るたびに、地面が揺れる。距離が、みるみる縮む。

 僕は水を放った。魔物の胸に当たる。けれど勢いを殺すには足りなかった。水飛沫を弾き飛ばして、そのまま突っ込んでくる。

 逃げようとした。でも足がもつれ尻餅をつく。

 影が、僕の上に覆い被さった。

 生臭い息が、顔に吹きかかる。牙の間から唾液が一滴落ちて、僕の頬に触れた。生暖かい。


「ひっ……!」


 手を構える。魔法陣を作らなきゃ。でも何もできない。

 爪が振り上げられた。その先が陽の光を反射して、白く光る。

 あれが落ちてくる。

 そう思った、その時。


「イルヴァ!」


 リディアが、飛び込んできた。そのまま体当たりして、魔獣が数歩よろめく。

 だけど魔物はすぐに飛び掛かって来た。

 リディアは僕の前に立って、剣を横に構える。

 爪が、剣へ叩きつけられた。金属の悲鳴が響く。リディアの身体が、ぐんと沈んだ。


「ぐっ……!」


 剣が押し下げられて、肩が震える。

 爪の一本が刃を滑り、リディアの左腕を走った。袖の裂ける音が、先に聞こえた。

 それから、ほんの少し遅れて、赤い口が開く。皮膚が、布みたいにぱっくりと割れていた。肩と肘の間ぐらいに一本の赤い線が伸びている。

 その際、一滴が僕の手の甲に飛んだ。

 熱い。時間が止まった気がした。音が遠くなる。自分の心臓の音だけが、耳の奥で鳴り響いていた。

 リディアの袖がじんわりと赤く染まっていく。


「リディア!」

「大丈夫。浅いから」


 リディアは歯を食いしばった。それでも、剣を握った手だけは離さなかった。


「まだ、やれる……!」


 剣を押し返そうとする。でも力が足りない。魔物が更に体重をかける。

 リディアの膝が、地面に着いた。

 怖い。怖くて、身体が動かない。

 でも、リディアが目の前で必死に耐えてる。

 僕は魔法陣を描こうとした。水でも火でもいい。何かを。何かを出さなければ。


「やめろ!」


 声を絞り出した。魔法陣が現れ、水が大きさを増していく。

 けれど、リディアの限界の方が早い。間に合わない――。

 その時だった。


「そこをどけ!」


 横から誰かが飛び込んできた。

 剣が魔物の脇腹に突き刺さる。魔物が大きく身を捩った。爪がリディアの剣から外れて、地面に叩きつけられる。


「今だ!」


 別の村人が叫んだ。

 僕の腕が強く掴まれた。


「えっ」


 引っ張られて身体が後ろへよろめく。

 振り返ると母さんだった。


「母さん!」

「逃げるわよ!」

「でも、リディアが!」

「リディア!」


 母さんが叫ぶ。

 リディアも、別の村人に腕を掴まれていた。


「離して!」

「駄目だ!」

「まだ戦える!」


 リディアが、魔物から目を離さずに叫ぶ。

 けれどその声には恐怖が混じっていた。剣を握る手も、震えている。


「僕だってまだ――」

「戦えるかどうかじゃない!」


 母さんが僕を強く引っ張った。


「あなたたちはまだ子どもなの!」

「……!」


 何も、言い返せなかった。拳を握り締めたまま、僕は引きずられるしかなかった。

 後ろを見る。村人たちが、魔物を相手にしている。剣を突き刺した人が爪を避ける。別の人が横から斬りつける。魔物は傷を負いながらも、身を低くして反撃した。その度に地面が抉れて、怒号が響く。

 助けようとした人は、助かった。

 それだけは、よかった。

 でも僕たちは、何もできなかった。

 魔法だって使える。リディアだって剣を振れる。だから、少しくらいなら戦えると思っていた。

 違った。本物を前にすると、身体が動かなかった。頭が真っ白になって、魔法陣の形さえ思い出せなかった。練習の時は、相手の動きを読めた。失敗しても、やり直せた。

 でもあれは違う。一回の失敗が、そのまま命に届く。

 だから怖かった。何もできなかった。もっと早く魔法を使えていれば。どうして、身体が動かなかったんだ。

 守るつもりだったのに……。

 でも守られたのは、僕の方だった。最後に僕たちを助けたのも、大人たちだった。

 母さんに引かれて走りながら、僕は何度も振り返った。リディアも、同じだった。

 戦いの音が、少しずつ遠くなっていく。怒鳴り声も、剣のぶつかる音も、魔物の唸りも、細く薄れていった。

 僕たちは、避難するしかなかった。

 そして、僕たちの知らないところで大人たちは、まだ戦っていた。

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