『魔物の夜』3
洞窟の中には、村の人たちが集まっていた。
湿った岩の匂い。天井から落ちる水滴の音。ランプの小さな灯りが、人の影を壁に大きく揺らしている。
子どもの泣き声。怪我人の、ひゅうひゅうと苦しそうな息づかい。不安そうに交わされる囁き声。誰もが平気な顔をしようとして、失敗していた。
母さんは、自分の前掛けを裂いて、リディアの左腕をキツく縛ってくれた。白い布は、みるみるうちに赤く滲んでいく。リディアは、痛いとも言わなかった。ただ、洞窟の入口を見ていた。
その頬に、乾いて黒ずんだ細い線が残っている。魔物の血だ。拭うことも忘れたまま、リディアはそこに座っていた。
僕は、自分の右手を見た。まだ指先が震えている。試しに、魔力を集めてみようとした。光の輪は形になる前に解けて消えた。
外では、まだ戦いが続いていた。
剣がぶつかり合う、遠い金属音。魔法の弾ける、鈍い破裂音。地面を揺らす、魔物の咆哮。それに混じって、誰かの叫び声が途切れ途切れに聞こえてくる。足音。何かが倒れる音。
僕は、洞窟の入口を何度も見た。
父さんは、まだ戦っている。おじさんも、おばさんも。さっきまで一緒にいた人たちが、まだあの向こうにいる。
「……大丈夫かな」
隣でリディアが呟いた。声が掠れていた。
僕はすぐに答えられなかった。大丈夫だと言いたかった。そう言えば、リディアも少しは安心できると思った。
「大丈夫だよ」
ようやく声にする。
根拠なんてなかった。自分でもその言葉を信じられていなかった。
「お父さんたち、強いから」
「……うん」
リディアは小さく頷いた。けれど膝の上で握りしめた右手は、白くなるほど震えていた。
いつもなら、何か言い返したり、無理にでも笑ったりするのに。今は入口から目を離せずにいる。
僕も黙って外を見つめた。
どれくらい経ったのか分からない。激しかった音が、ひとつずつ遠のいていった。剣がぶつかる音が途切れた。魔法の弾ける音がなくなった。魔物の咆哮が聞こえなくなった。
音が減るたびに、不安が胸の奥へ広がっていく。戦いが終わりに近づいている。
それは、勝ったということなのか。それとも――。
リディアの肩が、わずかに震えた。
僕は何か言おうとした。でも、言葉が出てこなかった。
やがて。最後の音が、ぷつりと途切れた。洞窟の中が急に広くなったような気がした。天井から落ちる水滴の音が、やけに大きく響く。誰かが息を呑む音まで聞こえた。
誰も何も言わなかった。静かだった。さっきまでのどんな音より、この静けさの方がずっと怖かった。
何が起きたのか、分からない。分からないから、怖い。
すると入口の光の中に、人影が現れた。
「……もう大丈夫だ」
父さんだった。
「父さん!」
僕は駆け寄った。
無事だった。そのことに胸の奥が、一瞬だけ緩んだ。
けれど父さんは僕の頭に手を置いただけで、笑わなかった。
「怪我はないか?」
「うん」
頭に乗った手が小さく震えていた。
服は泥と血で汚れて、袖が裂けている。腕には布を巻いた傷。顔は僕が見たことのないくらいに疲れていた。
父さんは、戻ってきた。でも全員が戻ってきたわけじゃない。その考えが、頭から離れなかった。
洞窟の入口には、他の大人たちも次々と姿を見せていた。誰も「勝った」とは言わなかった。互いに目を合わせようとせず口を結んで、ただ人の数を数えるみたいに、視線を彷徨わせている。
リディアが、立ち上がった。父さんの背中の向こうを、じっと見ている。そこから誰か来ないかと、待っている。
だけどもう誰も来なかった。
「……村へ戻るぞ」
父さんの声は乾いていた。
僕たちは誰も口を開かないまま洞窟を出た。
リディアは、父さんの少し後ろを歩いていた。何度も何かを尋ねようとして、その度に口を閉じる。
僕も、同じだった。聞くのが怖かった。聞かなければまだ何も決まっていないような気がした。けれど村が近づくにつれて、鼻を刺すような嫌な臭いが少しずつ濃くなっていった。
*
空は夕暮れの色を失いかけていた。避難している間に、思っていたよりずっと時間が過ぎていたらしい。薄墨色の雲が、村の上に低く垂れ込めている。
戦いは終わったはずなのに、空気は重かった。
やがて村が見えた。
「……」
僕は足を止めた。
家が壊れている。屋根が崩れ壁が裂け、道には瓦礫が散らばっていた。黒く焦げた梁から、細い煙が立ち上っている。
でもそれだけじゃなかった。
道には赤黒い血が広がっていた。土に染み込み、窪みに溜まり、夕暮れの光を鈍く返している。
一歩、踏み出す。靴の裏が、ぐに、と何かを踏んだ。
「……っ」
反射的に足を引く。鼻の奥に鉄のような臭いが流れ込んできた。焦げた木や布の臭いと混ざり合って、村全体に残っている。
「うっ……」
口元を押さえる。その臭いの向こうに、人が倒れていた。
腕や足を不自然な形に曲げた人。傷を負ったまま動かない人。折れた剣や槍と一緒に、血で濡れた布切れが散らばっている。
僕は目を逸らした。けれど逸らした先にも同じ光景があった。壁際に倒れた人。血に染まった道。誰かの靴が、片方だけ落ちている。
その中に、見覚えのある姿があった。パンを焼いている、あのおじさんだった。店の前で仰向けに倒れている。いつも粉の付いてる前掛けが、赤黒く染まっていた。昨日の朝、焼きたてのパンの端っこを一つ僕にくれた人だ。
倒れた椅子。割れた皿。籠から転がり出た林檎。窓辺に干したままの洗濯物。
昨日まで、ここには人がいた。ご飯を食べて、笑って、明日の話をしていた。
その人たちが、今は動かない。胃の奥が急にせり上がった。
「……っ」
口元を押さえるけど、間に合わなかった。
「う、げ……っ」
身体を折り、道端に吐いた。胃の中に残っていたものが、ほとんどなくなるまで吐き続ける。喉が焼けるように痛かった。目に涙が滲み、息がうまく吸えない。
誰かが何かを言った気がした。でも聞き取れなかった。
暫くしてようやく顔を上げる。
だけど目の前に広がる景色は、何も変わっていなかった。
「イルヴァ、大丈夫?」
僕は口元を拭った。
周りではお父さんとお母さん、リディアが心配そうに僕を見つめていた。
「大丈夫」
「あんまり見るな。下を見てた方が良い」
「うん」




