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『魔物の夜』4

 だけど耳からも、逃げられなかった。


「うっ……」

「誰か、こっちを手伝ってくれ!」

「まだ息がある!」

「布を! 早く!」


 怪我をした人の呻き声。押し殺した泣き声。誰かを呼ぶ声。瓦礫をどかす音。

 村のあちこちから、声が聞こえてくる。

 自分の手を見る。震えていた。

 僕の知っている村は、もうどこにもなかった。いつも駆けていた道も、家の前の椅子も、見慣れた景色のはずなのにどこか知らない場所のように見える。

 リディアも、黙っていた。顔から血の気が引いている。頬にはまだ黒ずんだ線が残っていた。

 けれど目だけが、忙しなく動いている。誰かを探している。僕にも分かった。

 お父さんと、お母さんを探しているんだ。

 戦いを終えた人たちが、互いの無事を確かめながら、ようやく動き始めていた。


「まだ見つかっていない人は?」

「こっちにはいない!」

「負傷者を運べ!」

「誰か、止血できるものを持ってこい!」


 声が飛び交う。腕を押さえている人。頭を布で押さえている人。足を引きずりながら、それでも誰かを助けようとしている人。

 僕もリディアの両親を探した。

 見つかってほしい。でも見つからないでほしい。そんな矛盾したことを考えていた。

 リディアも、辺りを見回している。


「……お父さん」


 小さな声が聞こえた。誰かを見つけたのかと思った。

 でも違った。ただ呼んだだけだった。

 返事はない。リディアは、もう一度辺りを見る。


「……お母さん」


 やっぱり、返事はなかった。

 父さんは何かを知っているようだった。けれどすぐには言わなかった。

 僕たちを連れて、壊れた家々の間を歩いていく。その途中で、僕は何度も目を逸らした。見たくなかった。けれど一度見てしまったものは、もう頭から消えなかった。

 昼間まで、僕たちと同じように生きていた人たちだった。その事実が、何よりも怖かった。

 やがて、父さんが立ち止まった。


「リディア」

「……はい」


 返事は、小さかった。


「少し、いいか」


 リディアは、父さんを見上げた。


「……お父さんと、お母さんは?」


 父さんが黙った。

 その沈黙だけで、僕にも分かってしまった。


「……二人とも、最後まで戦った」


 父さんはゆっくりと言った。


「村の人たちを逃がすために」


 リディアは黙っている。

 父さんは一度、言葉を選ぶように口を閉じた。


「魔獣は、他の者たちでは手に負えなかった。二人は、そいつと最後まで戦った」

「……勝ったの?」


 リディアの声は妙に平らだった。


「あぁ」


 父さんが頷く。


「魔獣は倒した」


 少しだけ間が空いた。


「……でも、二人も一緒に倒れた」


 リディアの顔から表情が消えた。蝋燭の火がふっと吹き消されたみたいだった。


「……そう」


 それだけだった。泣かなかった。声も上げなかった。

 ただ、父さんを見ていた。


「顔、見たいか?」


 父さんが聞く。

 リディアは、暫く動かなかった。

 それから、小さく頷いた。

 父さんに連れられて、僕たちは村の外れへ向かった。

 そこには、何人かの村人が集まっていた。その中央に二人が並べられていた。


「……」


 リディアが、立ち止まる。僕も、その場から動けなかった。

 リディアのお父さんの鎧は、大きく傷ついていた。胸当てには、深い爪痕が三本、斜めに走っている。片腕に巻かれた布は、もう赤黒く染まりきっていた。

 お母さんの服も破れていた。肩から脇腹にかけて、大きな傷が残っている。

 誰かが二人の顔の血を拭ってくれたのだろう。頬は青白くて、疲れ切った表情がそこに残っていた。

 でも眠っているようにも見えた。

 今にも目を開けて『遅かったな』なんて、言い出しそうだった。


「……お父さん」


 リディアが、小さく呟く。

 返事はない。


「……お母さん」


 やっぱり返事はない。

 リディアは、二人の前にしゃがみ込んだ。手を伸ばしかけて、途中で止まった。触れるのが怖いのかもしれない。

 少し迷ってから、お父さんの手にそっと触れた。


「……」


 リディアの指が、ぴくりと震えた。それでも手を離さなかった。

 僕は少し離れた場所から見ていた。何か言わなきゃいけない気がした。でも何も言えなかった。

 父さんが静かに口を開く。


「二人がいなかったら、この村は駄目だったかもしれん」


 リディアは黙っている。


「二人は、多くの命を守ってくれた」

「……うん」

「お前を守るためにもな」


 リディアは俯いた。

 肩が小さく上下した。泣いているのかと思った。でも涙は落ちなかった。


「……すごいね」


 リディアが言った。口元だけが、ほんの少し動いた。


「お父さん、最後まで戦ったんだ」

「……あぁ」

「お母さんも」

「あぁ」

「……二人とも、すごい」


 声が、震えていた。

 それでも、リディアは泣かなかった。

 泣かないんじゃない。

 泣けないんだ、と思った。


「……私、お父さんとお母さんの子供でよかった」


 父さんは、何も言わなかった。ただ目を伏せた。

 母さんは、顔を背けていた。肩が小さく震えている。

 リディアは二人の手を握ったまま、暫く動かなかった。

 やがてゆっくりと手を離す。


「……またね」


 小さな声だった。まるで明日も会えるみたいに。

 僕は胸の奥が、きゅうっと苦しくなった。


 *


 その後、村の人たちは亡くなった人たちを運び、怪我人の手当てを始めた。誰かが火を起こし、誰かが水を運ぶ。

 僕も手伝おうとした。でも何をしても、手につかなかった。水桶を持ち上げると、あの血だまりを思い出す。瓦礫に手をかけると、昼間の戦いの音が耳の奥で蘇る。

 剣がぶつかる音。魔物の咆哮。誰かの叫び声。リディアの腕から落ちた、赤い雫。

 そして二人が戻ってこなかったという事実。

 僕たちが助けた村人は、生きている。僕たちも、生きている。

 それなのに、胸の奥には重いものが沈んでいた。

 日が完全に落ちた。村のあちこちで、小さな火が焚かれた。灯りがなければ、壊れた家も、倒れた人たちも、闇に沈んでしまうから。

 けれど火が灯るほど、傷跡ははっきりと浮かび上がった。血の跡。壊れた家。折れた武器。動かなくなった人たち。闇の中に隠れていてくれた方が、まだよかったのに。

 誰も大きな声で話さなかった。ときどき、どこかで誰かの泣き声だけがした。

 夜になった。僕らの家は無事だった。だから部屋の中で横になっていた。リディアも家にいた。

 眠れない。目を閉じると、昼間の光景が瞼の裏に浮かんでくる。何度も寝返りを打った。

 そのうち喉が渇いてきた。布団から起き上がって、台所へ向かう。

 廊下は暗かった。家の中には、誰も起きている気配がない。奥の部屋の前を通る時、僕は思わず息を潜めた。扉の向こうからは、何の音もしなかった。そして水瓶から汲んだ水を、飲もうとして。

 玄関の扉が、静かに開く音がした。


「……?」


 振り返る。廊下の向こう。扉の隙間から、夜の冷たい風が吹き込んでいる。

 そして一瞬だけ。外へ出ていく小さな背中が見えた。


「……リディア?」


 声にした時には、もう扉が閉まりかけていた。

 水の入った器を置く。手がまだ震えていて、かたん、と音が鳴った。

 急いで台所を出る。玄関へ向かう途中、階段の近くに母さんが立っていた。


「……イルヴァ」

「今、リディアが……」

「ええ」


 母さんは扉の方を見て、それから僕を見た。

 その目が、赤かった。


「追いかけてあげなさい」


 僕は頷いた。


「……分かった」


 僕もその背中を追って外へ出た。

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