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『魔物の夜』5

 夜になっても鉄のような臭いは、まだそこにあった。夜気に冷やされて、かえって濃くなっているようだった。僕は袖で鼻を押さえながら歩いた。

 リディアの姿はなかったけど、どこへ向かったかはすぐに分かった。

 あの大樹だ。僕たちが何度も遊んだ場所。昼寝をした場所。魔法を練習した場所。お姉さんと、出会った場所。

 村中が変わり果てたのに、大樹だけは何も変わらずそこに立っていた。月に照らされた枝が、空いっぱいに広がっている。葉が風に揺れて、さらさらと鳴る。今朝、僕が水をぶちまけたあたりの草は、夜露に濡れて、静かに光っていた。

 朝と同じ音だった。

 朝と同じ、風だった。

 リディアは、その根元に座っていた。膝を抱えて、背中を小さく丸めている。僕が近づいても、振り向かなかった。


「……リディア」

「……」


 返事はない。

 僕は、隣に座った。何を言えばいいのか、分からなかった。大丈夫、なんて言えない。もう戻ってこない人を前にして、そんな言葉に意味があるとは思えなかった。

 暫くして、リディアが手を伸ばした。

 僕の手を握る。指先が、冷たくて震えていた。

 僕も何も言わずに握り返した。


「……お父さん」

「うん」

「最後まで戦ったんだって」

「うん」

「お母さんも」

「……うん」

「二人とも、すごいよね」

「カッコいいね」


 リディアは、昼間と同じように笑おうとした。

 でも口元が少し動いただけだった。


「……お父さん、迎えに来ると思ってた」


 突然リディアが言った。

 僕は、黙って聞いた。


「お母さんも……いつもみたいに、迎えに来ると思ってた」


 握られた手に少しだけ力を込める。


「だって、今夜はイルヴァの家にいるから」

「うん」

「いつもなら、遅くなったら、お父さんかお母さんが迎えに来るでしょ」

「……そうだね」

「だから今日も……扉が開いて」


 リディアがゆっくり顔を上げた。


「リディア、帰るわよって……言ってくれると思ってた」


 声が震えた。

 僕は何も言えなかった。


「でも、誰も来なかった」


 リディアは空を見つめた。


「ずっと待ってたのに」


 その言葉が胸に刺さった。


「お父さんも、お母さんも……迎えに来なかった」


 リディアはまだ分かっていないのかもしれないと思った。

 死んだということを。

 頭では分かっている。でも、心が追いついていない。


「今日も、帰ったらいっぱい話そうと思ってたのに」

「……うん」

「怖かったって言おうと思ってたのに」


 声が少しずつ崩れていく。


「助けに行っちゃ駄目って言われたのに、行っちゃったって……怒られるかなって」


 そこで言葉が止まった。

 暫く何も聞こえなかった。

 風が大樹の葉を揺らす音だけが、夜に響いている。


「……ほんとに、迎えに来ないの?」


 リディアが僕を見た。

 僕は答えられなかった。


「もう、迎えに来てくれないの?」


 昼間の強がりは、もうどこにもなかった。

 そこにいるのは、ただ両親の迎えを待っている子どもだった。

 僕はゆっくり首を横に振った。それしかできなかった。


「……いや」


 リディアの顔が歪んだ。


「いやだ……」


 握った手に力が籠る。


「迎えに来てほしい……」


 声が震えた。


「お父さんに会いたい……」

「……うん」

「お母さんにも会いたい……」

「うん」

「もう一回、声を聞きたい……」


 涙が一つリディアの頬を伝った。


「もう一回だけでいいから……」


 僕の手の甲に涙が落ちた。

 昼間リディアの血が落ちたのと、同じ場所だった。

 あの時は、熱かった。今度の雫は温かくて……そしてひどく重かった。


「……怖い」


 リディアが呟く。


「一人になるの、怖い……」


 僕は何も言えなかった。

 今はただ、迎えに来てほしいだけなんだ。いつものように名前を呼んでほしい。抱き締めてほしい。そして今日あったことを全部話したい。

 それがもうできない。

 そのことを、リディアはようやく、理解し始めていた。


「……寂しい」


 声が幼くなる。


「寂しいよ……」


 涙が次々に溢れた。呼吸が乱れて言葉が途切れる。


「お父さんも、お母さんも、いない……」

「……」

「家に帰っても、二人とも、いない……」


 リディアは首を振った。


「いやだ……そんなの、いやだ……」


 声を押し殺そうとしても嗚咽が漏れる。同じ言葉を何度も、何度も繰り返す。


「会いたいよ……会いたいよ……」


 僕は何も言えなかった。

 大丈夫、とも言えない。帰ってくる、とも言えない。何ひとつしてあげられない。

 だからリディアを抱き締めた。腕を回すと、小さな身体がびくりと震えた。

 それから、ふっと、力が抜けた。

 リディアが僕の胸に顔を埋める。


「……っ、うぅ……」


 小さな身体が、ぶるぶると震える。僕の服が涙で濡れていく。

 どうすればいいのか、分からなかった。それでも離れてはいけない気がした。


「……ここにいるよ」


 やっと、それだけ言えた。

 両親の代わりにはなれない。悲しみを消すこともできない。それでも今だけは、リディアを一人にしたくなかった。


「僕は、ここにいるから」


 リディアは、返事をしなかった。ただ僕の服をぎゅっと掴んだ。

 僕も背中に腕を回した。震えが掌に伝わってくる。冷たい夜の中で、リディアの体温だけが小さく温かかった。

 何もできない。何を言えばいいのかも、分からない。それでもリディアが泣き止むまで、ここにいることだけはできる。

 泣き声が夜の大樹の下に響いた。僕はその声を聞きながら、ずっと抱き締めていた。

 やがて泣き声が弱くなっても、腕は緩めなかった。

 大樹の葉が風に揺れている。その音が泣き声の代わりに、夜へ溶けていった。見上げると、枝の隙間に沢山の星が見えた。

 半年前、ここでお姉さんと出会った。それからここで何度もリディアと笑った。今朝だって、笑っていた。この場所も、村も、僕たちの毎日も、ずっと変わらないのだと思っていた。

 大樹は変わらずそこにある。星も同じ場所で光っている。風も同じように吹いている。

 それなのに僕たちの世界だけが、変わってしまった。

 冷たい夜の中で、僕たちは互いの体温に縋ることしかできなかった。

 それでもリディアが、一人で泣かなくていいように。

 僕は隣にいた。夜が明けるまで。

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