第3話 『魔物の夜』
お姉さんと出会ってから半年が経った。あの日から僕の毎日は少しだけ変わった。
朝、目が覚めるとまず手の平を見る。目を閉じて身体の奥を探る。今までなかった量の魔力を感じる。それを確かめるだけで、なんだか一日が上手くいく気がした。
その日も僕は朝から大樹の下にいた。
「……できた」
頭上を見上げて思わず声が漏れた。
水の塊が浮かんでいる。拳より一回り大きな、透き通った水の塊が一つ。
形はひどく不格好だった。ふるふると震えて、こちらが膨らめばあちらが縮み、木漏れ日を受けるたびに歪んだ光を地面へ落とす。
「おお……」
隣で、リディアの声がした。
「前より大きいね」
「でしょ?」
つい得意になって顎を上げる。
その拍子だった。水の塊がぐらりと傾いた。
「あっ」
少し崩れるとあとは早かった。絶妙なバランスで成り立ってたかのように、水の塊が落ちてくる。
ばしゃん。冷たい塊が顔のど真ん中に降ってきた。
息が止まる。前髪から、顎から、ぽたぽたと雫が落ちた。足元の草に大きな水溜りが広がっていく。
「…………」
「…………」
僕とリディアは、黙って水溜りを見つめた。
「あーあ、失敗しちゃったね」
「分かってるなら言わなくていいじゃん」
リディアがくすっと笑う。顔を拭いながら、僕もつられて笑ってしまった。
お姉さんに会う前の僕は、小さな一つを出せるだけだった。火だって指先ほどが精一杯で、それを魔法と呼んでいいのかも分からなかった。
でも、今は違う。水を飛ばせる。火を放てる。土を盛り上がらせることも。風を起こして、リディアの髪を揺らすこともできる。
もちろん、上手くはない。魔法陣を描くには時間がかかるし、集中がひとつ途切れれば全部が台無しになる。狙った方へ飛ばないことだって多い。今みたいに、自分の顔に降ってくることも。
「でも、前よりは上手くなったよ。私たち」
リディアが言った。
「……リディアも?」
「うん」
リディアは、腰に差していた木剣を抜いた。
構えて、一歩、踏み込む。ひゅっ、と空気が鳴った。
半年前の剣は、僕の目でも軌道を追えた。今は違う。振りかぶりが小さくなって、無駄がなくなって、足運びは草の上を滑るように静かだった。二度、三度と振るうたびに風が起きて濡れた前髪を揺らす。
「私も少しは強くなったと思う」
「じゃあ僕たち、ちゃんと成長してるんだね」
「少しだけね」
「少しだけかぁ」
「だって、まだまだだもん」
リディアは木剣を腰へ収めて空を見上げた。
「お父さんには全然かなわないし」
「僕も……魔法、もっと上手くなりたい」
「じゃあ、頑張らないとね」
「うん」
僕は頷いた。
あの日お姉さんがくれた力。それを少しずつ自分のものにしていけることが、嬉しかった。もっと練習すれば、もっと大きな魔法が使える。もっと上手くなれば、いつかリディアを守れるくらいになれるかもしれない。
そんなことを考えながら、僕は濡れた草の上にごろりと寝転がった。
頭の上で大樹の葉が風に揺れている。木漏れ日が瞼の上を渡って、水溜りに落ちてきらりと光った。リディアが隣に腰を下ろす。何も言わなくても、そこにいるのが当たり前だった。
明日も、明後日も、こうして笑っているのだと。
僕は、疑いもしなかった。
*
最初に聞こえたのは、鐘の音だった。
昼下がり家に戻って、母さんの出してくれたパンをかじっていたときだ。
村の中央の鐘が、割れんばかりに鳴り響いた。朝と夕方を告げる、あの間延びした音じゃない。叩きつけるような、何かに追い立てられているみたいな音だった。ひとつ、またひとつ、間を置かずに打ち鳴らされる。
パンを持った指が、動かなくなった。
窓の外で誰かが叫んだ。誰かが走った。桶が倒れる音がして、犬が狂ったように吠え出す。どこかで子どもが泣き声を上げて、母親の呼ぶ声が重なった。
昼の光の中で、村がひっくり返っていく。
「イルヴァ! アーシャ!」
外から父さんの声がした。
僕は母さんと一緒に、外へ飛び出した。
道には鍬や斧や槍を握った大人たちが走っていた。さっきまで畑の話をしていた顔が、まるで別人みたいに硬い。誰かが怒鳴り、誰かが荷車を蹴倒し、砂ぼこりが陽の中で白く舞う。
「あなた」
「魔物だ! 魔獣もいる!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がすうっと冷えた。
魔物。魔獣。本の挿絵でなら、見たことがある。牙をむいた黒い絵。ページを捲れば消えてしまう絵。
でも父さんは腰に剣を佩いていた。壁に掛けたままの、錆びついているとばかり思っていた剣だ。抜かれた刃は、ちゃんと陽の光を返した。
父さんは昔、冒険者だったらしい。だからこういうときにどうすればいいのかを知っている。
「避難しろ! イルヴァを連れて早く!」
剣を握った父さんの背中は、いつもよりずっと大きく見えた。
その背中を見て、僕は自分の手に視線を落とした。
僕だって、魔法で――。
「僕も行く」
「駄目だ」
即答だった。
「でも……」
「駄目だ、イルヴァ」
「僕だって魔法が使える!」
「知ってる」
父さんが僕を見る。
「でも、お前はまだ子どもだ」
「半年も練習した」
「それでもだ」
悔しさで、喉の奥が熱くなった。
確かに、僕は子供だ。でも魔法だって使える。前よりずっと上手くなった。少しくらいなら、役に立てるはずだ。手の平の中で、魔力がじりじりと疼いている。ここにある。使えるのに。
その時、道の向こうから、おじさんがリディアを連れて走ってきた。
「リディア!」
リディアは木剣を握りしめていた。頬が強張って、息が浅い。
おじさんは父さんと目だけで一言交わすと、リディアの前にしゃがみ込んだ。
「リディア」
「……はい」
「お前は戦うな」
「でも、お父さん」
「お前はイルヴァと一緒に避難しろ」
リディアは何か言いかけて、唇を結んだ。木剣を握る指の関節が白くなっていく。
おじさんはその手から木剣をそっと取り上げると、代わりに自分の腰から予備の小さな剣を鞘ごと外して、リディアの帯に差し込んだ。
「これは持っていけ。……抜かずに済むことを、祈ってる」
リディアは帯に差された重みを見下ろして、小さく頷いた。
父さんもおじさんも、もう戦う準備をしている。みんなが戦う。なのに僕だけが逃げる。
それがどうしても嫌だった。
「僕も……」
言いかけた僕の頭に、父さんの手が乗った。
硬くて、大きな手だった。剣を握り続けてきた豆だらけの手。
「イルヴァ」
「……」
「もしもの時は、お前が母さんを守るんだぞ」
その言葉に何も言えなくなった。
「行きましょう」
母さんが僕の手を取った。
おじさんはリディアを強く抱き締めた。
「ここは任せろ。だから、そっちは頼むぞ」
「……分かった」
リディアは小さく頷いた。
「さぁ、リディアも行くわよ」
僕たちは、村のそばにある洞窟へ向かって走り出した。
振り返ると父さんとおじさんが、鐘の鳴る方へ駆けていくのが見えた。二つの背中は、すぐに土ぼこりの向こうへ消えた。




