第2話 『剣と魔法』
あのお姉さんと別れた、翌日。
僕は朝からずっと、昨日のことばかり考えていた。お姉さんがくれた力。胸の奥から溢れてきた、あの熱。空へ昇っていった、大きな水の塊。
ご飯を食べていても、顔を洗っていても、ふとした拍子に思い出してしまう。そのたびに口元が緩み、母さんに「何をにやにやしてるの」と言われた。「なんでもない」で押し通すのにずいぶん苦労した。
昨日までの僕には、指先ほどの炎が精一杯だったのに。
それなのに今は――。
「……できるかな」
村の外れにある大樹の下で、僕はひとり右手を伸ばした。
枝の隙間からこぼれた朝の光が、草の上にまだらな模様を描いている。昨日、お姉さんが水を出した場所。何度も思い返した光景なのに、いざ自分がやるとなると急に喉が乾いた。
もし昨日のあれが夢だったら。もしあの力がもう消えていたら。
「えっと……こうして……」
教えてもらった通りに、魔力を意識する。目を閉じて、身体の奥を探る。
……ある。
昨日までは、おへその少し上にある小さな熱を、指の間から溢れる水みたいに必死でかき集めていた。でも今は違う。静かで、澄んでいて、底が見えない。手を伸ばせば、いつでも届くところに。
それを、そっと手のひらへ導いていく。
すると、ぽつり。冷たい感触が手の平の真ん中に落ちた。
目を開ける。小さな水の玉が、ちょこんと浮かんでいた。透き通った表面に大樹の枝の影と、ちぎれ雲が小さく映っている。ひんやりして思っていたよりずっと重みがあった。
「……!」
できた。本当に、できた。
息をするのを忘れていた。胸の奥が、じん、と熱くなる。水の玉は僕の脈に合わせてほんの少しだけ震えていた。
お姉さんがくれた力のおかげかもしれない。でもこの水を呼んだのは、確かに僕の手だった。
昨日までなら、水なんてどれだけ頑張っても指先程度しか出なかったのに。
顔が勝手に緩む。頬がむずむずしてどうしようもない。
暫くして、水の玉はゆっくりと落ちて地面に染みて消えた。
「もう一回!」
今度はもっと大きく。そう思って魔力を込めると、さっきより大きな水の塊がぷるんと現れた。
「できた!」
嬉しくなって、何度も試した。出して、消して。また出して。
昨日までの自分からすれば、信じられないことだった。
もっとやりたい。もっと色々な魔法を使ってみたい。そう思っていた、その時――。
「イルヴァ」
「うわっ!」
突然、後ろから声をかけられて、僕は飛び上がった。
振り返ると木剣を持ったリディアが立っていた。稽古の帰りなのかもしれない。
「な、なんだ。リディアか……」
「何してるの?」
「見てて」
僕は得意げに手を前へ出した。
「水!」
手の平から水が溢れる。こぽこぽと湧いて、指の間を伝って、朝の光にきらきらと散った。
リディアの目が、大きく開く。
「……水魔法?」
「そう!」
「イルヴァが?」
「うん!」
リディアは暫く、僕の手元を見つめていた。
それからぱっと笑った。
「すごい!」
「でしょ?」
胸を張る。鼻の奥がつんと熱い。
「昨日は、指先くらいの火しか出せなかったのに」
「魔法を教えてくれた人がいたんだ」
「誰?」
「ここで会った……えーっと。名前、分かんないや」
そういえば自分の名前は教えたのに、お姉さんの名前は聞いていなかった。今さらになって気づく。
リディアは不思議そうに首を傾げたけれど、それ以上は聞かなかった。
「他のもできる?」
「他の?」
「うん。火とか」
「火……」
火なら、前から小さいのは出せた。でも、今なら――。
「やってみる」
手を前へ突き出す。水のときと同じように、魔力を集める。
すると、ぽっ。手のひらに、炎が灯った。
「……!」
「わあ……」
リディアの声が弾む。
「火だ!」
「できた……!」
拳よりもまだ小さい。けれど指先ほどしかなかった昨日までの火とは、比べものにならなかった。ぱちぱちと小さく爆ぜて、頬に熱が触れる。橙色の光がリディアの頬で揺れていた。
「すごいな……」
思わず、笑ってしまう。
その時だった。
「じゃあ、私もやってみようかな」
「え?」
リディアが、木剣をそっと地面に置いた。
「魔法」
「リディアが?」
「うん」
僕は少し驚いた。
リディアは、いつも剣の練習ばかりしている。おじさんから習っていて、僕なんかじゃ到底かなわないくらい上手い。魔法を使うところなんて、一度も見たことがなかった。
「やったことあるの?」
「ないよ。ずっと剣だったから」
「出来るの?」
「分かんないけど、楽しそうじゃん」
そう言ってリディアは僕の真似をするように、手を前へ出した。
リディアならあっさりできてしまうんじゃないか。しかも、僕よりずっと上手に。
そんな考えがふっと胸をかすめた。ほんの少し胃のあたりがきゅっとなる。
「こう?」
「たぶん」
「じゃあ……」
リディアが目を閉じた。僕も隣で息をひそめて見守る。
虫の声が草むらの奥で細く鳴っている。遠くで鳥が一羽、鋭く鳴いて飛び立った。リディアの眉の間に、小さな皺が寄る。手の平をじっと見つめるみたいに。
長い数秒。
「……あ」
するとリディアの手の平に、小さな炎が灯った。
「できた!」
思わず声が出た。喜んだのは本当だ。でも心臓がどきどきと鳴っているのは、喜んだからだけじゃなかった。
けれどその炎はすぐにふっと消えてしまった。
「……消えちゃった」
「もう一回!」
「うん」
今度は水。手の平に小さな水滴が滲んで、ほんの一瞬だけ丸くなった。
けれど、それもすぐにぱしゃりと崩れた。
「……難しいね」
リディアが苦笑する。
「でも、できたじゃん」
「ほんのちょっとだけ」
リディアには悪いけど、僕は少しだけほっとしていた。
でもほっとしてしまった自分が、ちょっとだけ恥ずかしかった。
「僕だって最初はそうだったよ」
「確かに」
僕は得意になって水を出して見せた。
するとリディアがこちらを見た。
「じゃあ、今日はイルヴァの勝ちだね」
「……え?」
「魔法では、私より上手」
その言葉が耳に届いた瞬間。時間がほんの少しだけ止まった気がした。風の音も、虫の声も、遠くなる。
僕の勝ち。僕が、リディアに勝った。
剣では一度も勝てたことがない。駆けっこも、勉強も、木の実を食べる早さだって。前に大喧嘩をした時なんか、僕は見事にボコボコにされた。何をしても、追いつけない背中だった。走っても走っても、リディアはいつもずっと先にいた。
そのリディアが今、僕を見て言った。
「魔法では、私より上手」って。
胸の奥からじわじわと熱いものが込み上げてくる。喉の奥がきゅうっと狭くなって、目の奥までじんとした。
「……やった」
「ふふ」
「初めて勝った!」
気づけば僕は両手を天まで突き上げて、声を上げていた。
そんな僕を見ながらリディアは、なぜかとても嬉しそうだった。負けたはずなのにどうしてだろう。
「魔法だけね」
「それでも勝ちは勝ちだよ!」
嬉しくて、嬉しくて、僕は何度も火を出した。
「見て! 今度は大きく!」
「すごい!」
「水も!」
「わあ!」
「じゃあ、火と水を一緒にしたらどうなるんだろう」
「それは危ないんじゃない?」
「ちょっとだけ!」
「イルヴァ、待って」
「大丈夫、大丈夫!」
右手に火。左手に水。二つをぐっと近づける――。
じゅっ! 白い湯気がぼふんと顔に吹きつけた。
「わっ!」
「きゃっ!」
二人同時にのけ反って、顔を見合わせる。前髪がしっとり濡れていた。
どちらからともなく吹き出した。
「言ったのに!」
「でも面白かった!」
「もう……」
そうして僕たちは、暫く魔法で遊んだ。
火を出したり。水を出したり。小さな風を起こしてみたり。地面に落ちた葉っぱをふわりと浮かせてみたり。




