『家族』2
その夜。僕とリディアは、同じベッドに入った。
窓の外には、薄い月が出ていた。カーテンの隙間から細い光が入り込んで、床板の上に白い筋を引いている。
「イルヴァ、もう少しそっち行って」
「これ以上行ったら落ちるよ」
「じゃあ、落ちないようにして」
「無理だよ」
いつもなら、ここから言い合いが始まって、最後は二人とも笑いながら毛布を取り合うところだった。
でも、その夜は、どちらも、それ以上は何も言わなかった。
少しだけ間があって、僕は聞いた。
「……腕、痛くない?」
「……ちょっと」
「壁側にする?」
「ううん。こっちでいい」
リディアは、包帯を巻いた腕を胸の上にそっと載せて、天井を向いた。僕も、同じように天井を向く。
暗い部屋の中。肩と肩が、ほんの少し触れている。毛布の中で、リディアの体温が、じんわりと伝わってきた。
隣から、小さな息の音が聞こえる。最初は、細くて、ぎこちなかった。息をひそめているみたいな、浅い息。それが、しばらくすると、ゆっくりとした長い息に変わっていった。
僕も、目を閉じた。誰かの息の音がする部屋は、こんなに温かいんだ、と思った。
昨日の夜は、あんなに長かったのに。今夜は、少しだけ、短くなった気がした。
*
翌朝。目を覚ますと、カーテンの向こうが、薄く明るくなっていた。
小鳥の声が、どこか遠くで聞こえる。台所のほうから、薪のはぜる音と、パンの焼ける匂いが、かすかに漂ってくる。
隣には、リディアがまだ眠っていた。お泊まりの時は、僕より早く起きていることも多い。けれど今日は疲れが出たのか、身じろぎもせず静かに眠っている。頬に髪がひと筋かかっていた。
僕の寝間着の袖を、リディアの指がほんの少し摘んでいた。
眠っている間に、無意識にそうしたのだろう。指先は軽く曲がっているだけで、力はほとんど入っていない。それなのに、動かしたらその手が解けてしまいそうで、僕は起き上がれなかった。
暫くそのまま天井を見ていた。天井の木目を、目でなぞる。
そうしていないと、昨日のことが勝手に浮かんできそうだった。
でも浮かんできた。魔物の黄色い目。爪。血。赤黒い地面。
鼻の奥にあの鉄の臭いが蘇る。壁に広がった赤い跡。動かなかった人たち。
そして並んで横たわっていた、リディアの――。
胸の奥がずしりと重くなった。息が浅くなる。
僕は隣を見た。リディアの胸が毛布の下で、ゆっくり上下している。すう、すう、と小さな音がする。
生きている。ここにいる。夜が明けても、隣にいる。
僕は袖を摘まんでいる指を、そっとほどいた。起こさないようにゆっくり、ゆっくり。指が離れる時リディアの眉が、ほんの少しだけ動いた。でも目は覚まさなかった。
ベッドから降りて、静かに部屋を出る。
「おはよう、イルヴァ」
台所では母さんが朝食の準備をしていた。
「おはよう」
「リディアは?」
「まだ寝てる」
「そう。じゃあ、起きてからでいいわ」
母さんは、それ以上何も言わなかった。
僕も何も言わなかった。
窓から差し込む朝の光が、卓の木目を白く照らしている。四枚目の皿が、もう当たり前みたいにそこに並んでいた。
朝食ができる頃、リディアが起きてきた。髪があちこち跳ねている。目をこすりながら、廊下の壁に手をついてゆっくり歩いてくる。
「おはよう」
「おはよう、リディア」
「……お腹空いた」
その言葉に、僕は少し驚いた。
昨日までリディアは、殆ど何も食べていなかったからだ。スープの豆をひとつ転がして、パンを少し千切っては置いて。母さんが何を勧めても、首を横に振っていた。
母さんが、鍋をかき混ぜる手を一瞬だけ止めた。
それから何でもないことのように言った。
「たくさん食べなさい」
「うん」
リディアは椅子に座った。
そしていつもより少しだけ多く、朝食を食べた。パンを一切れ半。スープを器の底が見えるまで。
それだけのことだった。僕はなるべく見ないようにしながら、横目でその様子を追った。バターの器をリディアの方へ、こっそり押しやる。
それだけのことなのに、胸の中がぽっと温かくなった。
母さんの背中はこちらを向いていないのに、笑っているのが分かった。
*
その日の昼。父さんは、村の復旧作業に出かけていた。母さんも、炊き出しの手伝いに行っている。
家にいるのは僕とリディアだけだった。
家の中は、しんとしていた。窓の外から槌を打つ音が響いてくる。荷車の車輪が軋む音。誰かの掛け声。遠くで木材が崩れて落ちる乾いた音。
「暇だね」
僕が言う。
「うん」
リディアは窓の外を見ていた。
窓から見える村は、まだ壊れたままだった。屋根のなくなった家。崩れた壁。瓦礫の山。黒く焦げた柱が、空に向かって何本か突き立っている。その間を大人たちが荷を担いで行き来していた。
なのに空だけはいつもと同じ澄んだ色をしていた。
それが少しだけずるいような気がした。
暫くして僕は思いついた。
「じゃあ、魔法の練習する?」
リディアが、僕を見る。
「魔法?」
「うん」
「……」
少し迷うように窓の外へ視線を戻して、もう一度、僕を見た。
「……いいよ」
小さな声だった。でも立ち上がる動きは、ちゃんと前を向いていた。
僕たちは、家の裏へ出た。
井戸の傍の少し開けた空き地。洗濯用の桶が、逆さに伏せて干してある。地面には、朝露の名残がまだ少し残っていた。
僕は手を前に伸ばした。
「見てて」
目を閉じる。右手が、ほんの少し汗ばんでいた。
あの日、この手は何も守れなかった。魔法陣を描くのも遅く、火は外れて、頭の中は真っ白だった。
もしまた出なかったら。そんな考えが一瞬だけ、胸の奥をかすめた。
でも僕は息を吸った。魔力を探る。
……ある。静かで、冷たくて、澄んでいる。
そこから細い流れを掬い上げる。胸の奥から、腕へ。腕から、手首へ。ひやりとしたものが、血の代わりに身体を巡って指先へ集まっていく。指の先が、しんと冷たくなった。
「……水。水」
手の平の上の空気が、ふっと湿った。
光が集まる。透明な粒が一つ、二つ、宙に生まれて、寄り添って、丸くなる。手の平の上に、小さな水の塊が浮かんだ。陽を受けて中で細かな光が揺れている。
それが、ぽんと、手から飛び出して。
ぽちゃん。地面に落ちて土の色を、丸く暗くした。水の跳ねる音が、空き地に一つだけ響いた。
「できた」
……出た。ちゃんと、出た。
胸の奥で、固く縮んでいたものが少しだけ解けた。
「うん」
リディアが少しだけ笑った。
「前より大きくなったね」
「本当?」
思わず声が跳ねた。
「多分……」
「そこは本当って言ってよ」
「じゃあほんと」
リディアが頷く。
僕は、自然と笑ってた。
あの日から初めて魔法を、ただ嬉しいと思えた。
いつかこの水が、誰かを守れるくらい大きくなればいい。ふと、そんなことも思った。でもそれは水の粒みたいにすぐに丸く消えて、あとには嬉しさだけが残った。
「じゃあ、もっと大きくしてみる」
「無理しないほうがいいよ」
「大丈夫」
もう一度、魔力を集める。
今度は、さっきよりずっと大きな水が生まれた。掌から零れそうなくらいの水の塊。ゆらゆらと、光を抱いている。
けれど形を保てない。縁のところから、ぶるぶると震えて。
ばしゃ。崩れて足元に水が飛び散った。
「……失敗した」
「でも、さっきより大きかった」
リディアが頷く。
「少しずつ上手くなってる」
濡れた靴のつま先を見て、僕は笑った。
「少しずつ」という言葉が、胸の中にことんと落ちて残った。
「じゃあ、リディアもやってみる?」
「私?」
「うん」
僕は、リディアに魔法を教えようとした。
「最初は、身体の真ん中に、あったかいところがないか、探すんだ。そこから、こう、指の先まで」
リディアは首を傾げていた。
「こう?」
右手を前へ伸ばしたまま、目を閉じてじっと動かない。眉の間に小さな皺が寄る。
けれどいつまで経っても、指先には何も現れなかった。
「……前はちょっとは出たのに」
「僕だって最初はできなかったよ」
「なんだか、自分だけの力で上手くなったみたいな言い方」
少し意地悪な言い方だった。
多分、上手くできないのが悔しかったんだと思う。唇がちょっとだけ、尖っている。
でもその言葉を聞いて、僕はお姉さんのことを思い出した。
胸に触れた指先。流れ込んできた、あの熱。胸の奥がほんの少しだけ、ざわっとした。
だからそれを振り払うみたいに、胸を張った。
「でも、もう僕のだし」
「私だって、その人に会ってれば……よーし! 見てて」
リディアがもう一度、手を伸ばす。
空き地に風が通り抜けた。洗濯桶の縁に残った水滴が、きらりと光る。
リディアが息を止める。
すると――指先からほんの少しだけ、水が滲み出た。
一粒。陽の光を受けて小さく、丸く光って。
すぐに消えた。
「出た!」
「出たね」
僕たちは、顔を見合わせた。
リディアの目が大きく開いている。頬がほんのり赤い。
そして二人で笑った。ほんの少しだけ。
それでも、昨日より自然に。




