第9話 治癒できないもの
治癒呪式は、身体をあるべき状態に戻す魔法だ。
リゼットは実習のあと、そう説明してくれた。
「切り傷なら、皮膚が閉じていた状態へ戻す。骨折なら、骨がつながっていた状態へ戻す。熱なら、体温が安定していた状態へ戻す」
「じゃあ、記憶は?」
リゼットは少し黙った。
「それが難しいんだと思う」
私たちは治癒棟の資料室にいた。リゼットが、術後混濁についての古い事故記録を探してくれたのだ。
「記憶のあるべき状態って、何だろうね」
彼女は小さく言った。
忘れる前の自分なのか。
忘れたあとの自分なのか。
その答えを、治癒呪式は持っているのだろうか。
古い事故記録は、棚の奥にあった。
表紙には、こう書かれている。
――術後混濁時における治癒重複例
リゼットが頁を開く。
「これは授業では扱わないやつ。重ねがけ禁止の理由だけ、注意事項として覚えさせられる」
記録の内容は短かった。
被験者は高密度の灯火系呪式を行使後、強い術後混濁を示した。
その後、治癒呪式が重ねがけされた。
身体反応は正常。
魔力循環も安定。
外傷なし。
けれど問診欄に、奇妙な記述があった。
――患者は「街は魔力石なしで光っていた」と発言。
私は息を止めた。
リゼットが次の行を読む。
――続いて、「空には鉄の鳥が飛んでいた」「遠くの人と箱を通じて話した」と発言。
鉄の鳥。
私は手帳の中の言葉を思い出した。
航空機。
「これ……」
「錯乱だと思う」
リゼットは言った。けれど、その声には自信がなかった。
記録者の診断欄には、整った字でこうある。
――治癒成功。記憶異常は残存。術後混濁に伴う虚偽記憶と判断。
私はその一文を何度も読んだ。
治癒成功。
記憶異常。
虚偽記憶。
どれも、きちんとした言葉だった。
きちんとしすぎていた。
「リゼット」
「うん」
「もし、虚偽記憶じゃなかったら?」
彼女は答えなかった。
資料室の窓の外では、治癒棟の白い灯りが静かにともっている。もちろん、魔力石で光っている。
それ以外の光り方を、私は知らない。
知らないはずだった。
リゼットは記録を閉じようとして、手を止めた。
「まだ続きがある」
最後の備考欄に、小さく追記があった。
――患者は退院時、上記発言をすべて否認。問診記録を提示しても、自身の筆跡であることを認めず。
私は、背筋が冷たくなるのを感じた。
患者は思い出した。
そして、また忘れた。
記録だけが残った。
私は手帳を開き、震える字で写した。
街は魔力石なしで光っていた。
空には鉄の鳥が飛んでいた。
遠くの人と箱を通じて話した。
書いている途中で、リゼットが言った。
「ねえ、ミナ」
「何?」
「これ、ただの錯乱じゃないの?」
私はペンを止めた。
普通なら、そう思うはずだった。
魔力石なしの灯りも、鉄の鳥も、遠くの人と話す箱も、この世界にはない。
だから、錯乱。
そう片づければ簡単だった。
でも私は、もう旧教育資料室の頁を見てしまっている。
航空機。
通信網。
そして、あの読みにくい言葉。
私は記録の診断欄をもう一度見た。
――術後混濁に伴う虚偽記憶。
その文字は、正しい顔をしていた。
けれど私には、それがただの錯乱状態とは思えなかった。




