第10話 虚偽記憶
あの事故記録を読んでから、リゼットは口数が少なくなった。
私も同じだった。
魔力石なしで光る街。
空を飛ぶ鉄の鳥。
遠くの人と話す箱。
どれも、この世界にはない。
ないはずのものだった。
だから治癒棟は、それを虚偽記憶と呼んだ。
翌日、私はリゼットと一緒に、治癒棟の診断基準を調べることにした。
資料室の棚には、白い背表紙の冊子が並んでいる。
――術後混濁診断基準
――治癒呪式重複時の注意事項
――虚偽記憶と錯乱発話の分類
リゼットは最後の冊子を手に取った。
「これ、授業で名前だけ出た」
「中身は?」
「詳しくは扱わなかった。試験範囲じゃないって」
またそれだった。
試験に出ない。
授業で扱わない。
だから覚えなくていい。
冊子を開くと、最初の頁に定義があった。
――虚偽記憶:術後混濁中に生じる、現実の経験に基づかない記憶様発話。
その下には、分類条件が並んでいた。
――1. 現行魔法体系に存在しない概念を含む。
――2. 客観的記録によって確認できない。
――3. 術者本人が回復後に否認する。
――4. 社会的現実と整合しない。
リゼットが眉をひそめた。
「これだと……」
「うん」
私たちは同じところを見ていた。
現行魔法体系に存在しない概念。
つまり、この学院に知られていないものは、その時点で虚偽に分類される。
「存在しないから虚偽なんじゃなくて」
私は声に出した。
「虚偽に分類するから、存在しないことになる」
リゼットは答えなかった。
頁をめくると、事例が並んでいた。
――症例12。灯火系呪式後、患者は「石を使わない光源」を語る。分類:虚偽記憶。
――症例19。浮遊系呪式後、患者は「翼を持つ金属製飛行体」を語る。分類:虚偽記憶。
――症例31。遠話呪文後、患者は「掌に収まる通信具」を語る。分類:虚偽記憶。
別々の患者。
別々の呪式。
別々の時期。
それなのに、語っているものは似ていた。
私は手帳を開いた。
航空機。
通信網。
電気。
昨日まで意味の遠かった言葉が、急にこちらを向いた気がした。
リゼットは小さく息を吐いた。
「ねえ、ミナ」
「うん」
「これ、全部が錯乱なら、どうして似てるんだろう」
その問いを彼女が口にしたことに、私は少し驚いた。
リゼットは治癒師を目指している。
だから、診断基準を疑うのは簡単ではないはずだった。
けれど、彼女ももう気づき始めている。
これは1人の患者の奇妙な妄想ではない。
冊子の最後に、診断時の推奨対応があった。
――虚偽記憶を示す患者には、内容の真偽を問わず、反復確認を避けること。記憶の定着を防ぐため、速やかに標準回復手順へ移行する。
「定着を防ぐ?」
リゼットの声がかすれた。
「どういう意味?」
私は答えられなかった。
真偽を問わず。
その言葉が、喉の奥に引っかかった。
記憶が本物かどうかは問わない。
ただ、残らないようにする。
それが診断基準に書かれている。
リゼットは冊子を閉じようとして、手を止めた。
裏表紙の内側に、貸出履歴が貼られていた。
古い順に、治癒棟の導師たちの名前が並んでいる。
私は最後の欄を見た。
そこに、見覚えのある名前があった。
――エリアス・ヴェイン。
貸出日:死亡前日。
返却者:ミナ・クレイン。
私は手帳を握りしめた。
返した覚えはない。
けれど、そこには確かに、私の名前があった。




