第8話 問診票
マルクス先生に名前を聞かれたことが、ずっと引っかかっていた。
君の名前は。
研究テーマの面談で、最後に確認することではない。少なくとも、私はそう思っていた。
翌日の昼休み、私はリゼットを捕まえた。
「術後混濁のときって、治癒呪式では何を確認するの?」
リゼットは焼き菓子を半分に割りながら答えた。
「名前、日付、所属、直前にしていたこと。基本はそれくらい」
「それって、術後に確認するの?」
「うん。混濁が出てないか見るためだから」
「名前も?」
「うん」
「どうして名前なの?」
リゼットの手が止まった。
「……本人確認じゃない?」
「でも、本人かどうかを確かめるだけなら、学生証でいいよね」
「たしかに」
彼女は困ったように笑った。
「でも、そう習ったから」
そう習ったから。
学院では、それでたいていの説明が終わる。
私は少し迷ってから、手帳を開いた。昨日、旧教育資料室で写した言葉の1つを指で押さえる。
「ねえ、航空機って聞いたことある?」
「コウクウキ?」
リゼットは首をかしげた。
「知らない。何それ」
「古い資料に出てきた」
「古い資料って、変な言葉多いよね」
彼女はあまり興味がなさそうに焼き菓子を口に入れた。
「魔力を使わずに飛ぶもの、らしい」
そう言うと、リゼットは笑った。
「それは無理でしょ」
あまりにも自然な笑い方だった。
だからこそ、私は黙ってしまった。
午後、リゼットは治癒呪式の実習があると言った。私は見学の許可をもらい、小さな実習室へついていった。
実習内容は単純だった。
軽い疲労を起こした術者に、回復呪式をかける。
その前後で、状態を記録する。
リゼットは白い問診票を取り出した。
氏名。
日付。
所属。
直前の行動。
術後混濁の有無。
そこまでは普通に見えた。
けれど、一番下に小さな注意書きがあった。
――記憶欠落が疑われる場合、治癒呪式の重ねがけを禁ずる。
「記憶欠落があると、治癒しちゃいけないの?」
「ああ、それね。危ないらしいよ」
「どう危ないの?」
「状態が固定されることがあるって」
「状態?」
「欠けたまま安定する、みたいなことだと思う」
リゼットはさらりと言った。
ただの授業で習う注意事項。彼女にとっては、それ以上でも以下でもない。
でも私には、その1文が妙に重く見えた。
治癒呪式は、身体をあるべき状態に戻す魔法だ。
では、記憶のあるべき状態とは何だろう。
忘れる前の自分なのか。
忘れたあとの自分なのか。
実習後、リゼットは問診票を束ねて提出箱へ入れた。
私はその中の1枚に目を留めた。
リゼット自身の問診票だった。
氏名欄だけが、少し濃い。
何度もなぞったみたいに。
「名前、書き直した?」
「え?」
リゼットが覗き込む。
「あ、本当だ。無意識かな」
「書きにくかった?」
「ううん。ただ……」
彼女は少し黙った。
「最近、自分の名前って、変な形に見えるときない?」
私は答えられなかった。
夕方、研究室に戻る途中、窓の外を浮遊船が横切った。
大きな船体が、魔力の膜に包まれて、夕焼けの中をゆっくり進んでいる。
見慣れた光景だった。
なのに私は、昼にリゼットが言った言葉を思い出していた。
それは無理でしょ。
魔力を使わずに空を飛ぶ。
彼女には、それが考える必要もないほど不可能に見えていた。
私にも、少し前まではそうだった。
研究室に着くと、私は手帳を開いた。
航空機。
旧教育資料室で写したその言葉は、まだ残っている。
意味は分からない。
けれど、完全な無意味でもない。
私はその横に、小さく書き足した。
リゼットは知らなかった。
魔力を使わずに飛ぶことを、無理だと言った。
そこまで書いて、手が止まる。
無理。
たぶん昨日までの私も、同じように思ったはずだ。
夜、寮に戻る前に、もう一度だけ空を見上げた。
浮遊船はもう見えなかった。
ただ、夕焼けの雲が長く伸びている。
その形が、一瞬だけ、旧教育資料室の頁に描かれていた金属の鳥に似て見えた。
瞬きをすると、もう分からなくなった。
私は慌てて手帳を開いた。
航空機。
文字は残っている。
けれど、さっきより少しだけ遠い言葉になっていた。




