第7話 欠落頁
忘却は副作用ではない。
その一文を、私は手帳に何度も書き写した。
副作用ではないなら、何なのか。
症状。
防御反応。
代償。
あるいは、もっと別の何か。
講義録の続きは切り取られていた。だから私は、切り取られた頁がどこかに残っていないかを調べることにした。
講義棟の資料室の奥には、古い本の修復記録を管理する水晶盤がある。普段は誰も使わない。傷んだ頁の補修や、版の差し替え履歴を確認するためのものだ。
私は『基礎呪式生理学講義録』の登録番号を入力した。
水晶盤に、淡い文字が浮かぶ。
資料名。
発行年。
保管場所。
修復履歴。
その下に、目的の項目があった。
――欠落頁:12—13
――処理理由:標準教育課程に不適
失われたのではない。
破れたのでもない。
教えないことにされたのだ。
標準教育課程に不適。
なんて便利な言葉だろう。
危険だから、とは書かない。
誤りだから、とも書かない。
ただ、授業には向かないと言う。
修復記録のさらに下に、小さな参照先があった。
――旧教育資料室:写し保管あり
旧教育資料室。
講義棟の地下にある、古い授業資料の保管場所だ。
禁じられた場所ではない。
だからこそ、誰も近づかない。
禁書庫なら、好奇心の強い学生が噂をする。けれど、旧教育資料室にあるのは古い講義計画、廃止された演習問題、今では使われない分類表ばかりだった。
試験には出ない。
ゼミで引用すれば、標準用語に直される。
研究に使うには古すぎる。
そういう資料は、禁じられるより確実に忘れられる。
私は閲覧申請を書いた。
申請理由の欄で、少し手が止まる。
忘却が何であるかを知るため。
そう書きかけて、やめた。
代わりに、こう書いた。
術後混濁の旧分類確認。
水晶盤はしばらく沈黙したあと、淡く光った。
――申請受理。閲覧時間:30分。
地下の旧教育資料室は、空気が乾いていた。
棚には、今の教科書よりずっと薄い冊子や、黄ばんだ演習用紙が並んでいる。文字は古く、ところどころ今とは違う言い回しが混じっていた。
目的の箱はすぐに見つかった。
『基礎呪式生理学講義録・教育用写し』
私は手袋をつけ、欠落していた12頁を開いた。
そこには、切り取られた続きが残っていた。
――忘却は副作用ではない。
その次の行。
――呪式成立に伴う置換現象である。
置換。
私はその言葉を見つめた。
何かが消えるのではなく、何かと何かが入れ替わる。
そんな意味に読めた。
頁の下には、古い演習問題が載っていた。
――問1:灯火系呪式の成立により失われた非魔力式照明の概念を述べよ。
非魔力式照明。
私は眉をひそめた。
魔力を使わずに、光を灯す方法。
そんなものがあるのだろうか。
模範解答らしき部分は黒く塗りつぶされていた。けれど、その横に手書きの注釈が残っている。
――電気。
読める。
けれど意味が分からない。
古い雷属性の分類名だろうか。
それとも、灯火呪文の原型か。
私はその言葉をノートに写そうとして、少しだけ手を止めた。
見たことのない言葉なのに、完全に知らない言葉とも思えない。
まるで、夢の中でだけ使っていた単語のようだった。
次の演習問題へ進む。
――問2:浮遊系呪式の普及以前に存在した非魔力式飛行技術について、既知の記録を挙げよ。
非魔力式飛行。
魔力を使わずに空を飛ぶ。
そんな馬鹿な、と思った。
けれど頁の端には、簡単な図が描かれている。
長い胴体。
左右に伸びる翼。
鳥ではない。
浮遊船でもない。
金属でできた巨大な鳥のようなもの。
図の下には、かすれた文字があった。
――航空機。
私は息を詰めた。
その先の頁にも、同じような言葉がいくつか並んでいた。
遠話呪文の横には、通信に関する見慣れない語。
記録水晶の横には、光景を残すための別の技術。
治癒呪式の横には、身体を切り開いて治すという、ぞっとするような方法。
計算水晶の横には、魔力を使わずに計算を行う機械。
どれも意味はつかめない。
それでも、それぞれが今の魔法分類と妙に対応していることだけは分かった。
頁の下に、講義者の注釈がある。
――置換後、原概念の保持率は世代ごとに低下する。教育課程での補助的保存が望ましい。
原概念。
保持率。
補助的保存。
どれも学術的な言葉だった。
なのに、読んでいるうちに、足元が少しずつ薄くなっていくような気がした。
私は急いで、見つけた語をノートに写した。
すべてを理解する必要はない。
今は、消えない形にしておくことが先だった。
閲覧時間の終了を知らせる鐘が、小さく鳴った。
私は頁を閉じ、資料を箱に戻す。
旧教育資料室を出るとき、入口の水晶盤が淡く光った。
――閲覧終了。
その下に、もう1行だけ表示された。
――原概念への接触を確認。術後混濁に注意してください。
術後混濁。
また、その言葉だった。
私は何も言わず、資料室を出た。
廊下は静かだった。窓の外では、夕暮れの空を浮遊船がゆっくり横切っている。いつもなら見慣れた光景のはずだった。
けれど、その日は違って見えた。
空を飛ぶものは、本当にああいう形をしていただろうか。
そう思った瞬間、頭の奥がすべった。
考えかけた何かが、するりと逃げる。
私は立ち止まり、手帳を開いた。
さっき写した言葉は、ちゃんと残っていた。
見慣れない語ばかりだった。意味はまだ遠い。けれど、文字としては残っている。
それだけで、少し安心した。
そして、安心した自分が怖くなった。
寮に戻るころには、私は何度も手帳を開いていた。
消えていない。
まだ残っている。
そう確かめるたびに、言葉だけを瓶に閉じ込めて、中身を取り逃がしたような気がした。
部屋に着いて、私は机の上に手帳を置いた。
灯火呪文を唱えようとして、やめる。
暗い部屋の中で、もう一度だけ今日の頁を開いた。
書き写した語は、全部で6つ。
確かに6つある。
私はそう数えて、手帳を閉じた。
けれど、しばらくしてから胸が冷えた。
旧教育資料室で見た言葉は、本当に6つだっただろうか。
もう1つ、あった気がする。
私はすぐに手帳を開いた。
そこには、6つの言葉しか残っていなかった。




