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王立魔法科学院のとある研究課程の記録について  作者: MuGi
失われたものの輪郭

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第6話 術後混濁

 術後混濁。


 その言葉が、面談のあとも頭に残っていた。


 魔法の後に少しぼんやりすること。

 集中が切れること。

 何をしようとしていたのか、一瞬分からなくなること。


 学院では、珍しいことではない。


 むしろ、ありふれている。


 ゼミの前に詠唱を詰め込みすぎた学生が、発表の順番を忘れる。

 実験室で結界を張り直した導師が、置いたばかりの羽根ペンを探す。

 治癒呪式の演習後に、誰かが昼食の約束を忘れる。


 そのたびに、誰かが笑って言う。


「術後混濁だね」


 それで終わる。


 疲れているのだ。

 魔力を使ったのだ。

 少し休めば戻るのだ。


 そういうものだと、私も思っていた。


 けれど、マルクス先生が最後に私の名前を確認したせいで、私はその言葉をただの疲労として見られなくなっていた。


 翌朝、私は講義棟の資料室へ向かった。


 黒曜呪式研究室の資料室よりも明るく、学生向けの教科書や講義録が並ぶ場所だ。ここなら、大魔導師アウレリウスの論文ほど厳重な封印はかかっていない。


 資料室の入口には、学生向けの注意書きが貼られていた。


 ――長時間の呪式演習後は、術後混濁に注意すること。必要に応じて休憩と水分補給を行うこと。


 その隣には、試験期間中の掲示がある。


 ――試験前日は高密度呪式の練習を控えること。術後混濁により暗記内容が一時的に不安定になる場合があります。


 私はその前で少し立ち止まった。


 注意書きとして貼られているくらい、当たり前の現象。

 風邪や寝不足と同じように、学院生活の一部になっているもの。


 だからこそ、誰も立ち止まらない。


 私は棚から、現行版の基礎教科書を取り出した。


 『初等呪式学概論・改訂第12版』


 索引から「術後混濁」を探す。


 該当箇所には、短くこう書かれていた。


 ――術後混濁:呪式行使後に生じる一過性の認知低下。多くは魔力消耗と集中疲労に由来し、休息により回復する。


 予想通りの説明だった。


 魔力消耗。

 集中疲労。

 休息により回復。


 どれも正しい言葉に見える。

 少なくとも、疑う理由はない。


 実際、欄外の学生向け注釈には、柔らかな字でこう添えられている。


 ――軽い術後混濁は誰にでも起こります。焦らず、深呼吸して休みましょう。


 私はその一文を見つめた。


 誰にでも起こる。

 だから、誰も疑わない。


 私は次に、1つ古い版を開いた。


 改訂第9版。


 そこでも見出しは同じだった。


 術後混濁。


 ただ、説明の末尾に1文だけ加わっている。


 ――高密度呪式の後には、短期記憶の混乱を伴う場合がある。


 短期記憶。


 私はその言葉だけを、ノートの端に小さく写した。


 さらに古い版を探す。

 第6版。第4版。第2版。


 版が古くなるほど、紙は硬く、文字はかすれていく。けれど、見出しは変わらない。


 術後混濁。


 ただし、説明の中身だけが少しずつ違っていた。


 第6版にはこうある。


 ――術後混濁:魔力循環の乱れに伴う注意力および記憶保持の一時的低下。


 第4版では、さらに踏み込んでいた。


 ――術後混濁:呪式行使後に見られる軽微な記憶欠落を含む。通常は自然回復する。


 私は頁をめくる手を止めた。


 混濁という同じ言葉の中に、昔は「記憶欠落」という言葉がはっきり入っていた。


 今の教科書では、それが「認知低下」になっている。


 間違ってはいない。

 けれど、輪郭がぼやけている。


 さらに古い講義録を探した。棚の下段、ほとんど誰も触らない場所に、革表紙の薄い冊子があった。


 『基礎呪式生理学講義録』


 発行年は、今から50年以上前。


 索引はなかった。

 私は頁を1枚ずつめくった。


 そして、欄外に手書きで残された古い注釈を見つけた。


 ――代償性忘却。


 息が止まった。


 本文にはこうある。


 ――呪式行使に伴う記憶欠落は、単なる疲労では説明できない例がある。特に高密度呪式では、発動後に特定の記憶単位が欠落することがあり、これを代償性忘却と呼ぶ。


 代償。


 その2文字だけが、他のどの言葉よりも黒く見えた。


 私は慌てて次の頁をめくった。


 しかし、その先はなかった。


 頁が切り取られている。


 刃物で丁寧に抜かれたように、根元だけが細く残っていた。


 私は周囲を見回した。資料室には数人の学生がいるだけで、誰もこちらを見ていない。


 切り取られた頁の前後を確認する。


 前の頁には、代償性忘却の定義。

 次の頁には、何事もなかったように別の節が続いている。


 そこには新しい見出しがあった。


 ――魔力疲労の回復法。


 私はノートを開き、慎重に書き写した。


 術後混濁。

 認知低下。

 記憶保持の低下。

 記憶欠落。

 代償性忘却。


 同じ現象を説明しているはずなのに、版を追うごとに、言葉の鋭さだけが削られているように見えた。


 これは、ただの用語整理なのだろうか。


 それとも、誰かがそう読めるように直したのだろうか。


「その本、珍しいね」


 背後から声がした。


 振り返ると、リゼットが立っていた。腕には治癒呪式の教科書を抱えている。


「調べもの?」


「術後混濁について」


「昨日のゼミのせい?」


「それもある」


 リゼットは机の上の古い講義録を見た。


「それ、古い版だよね。治癒呪式の授業では、あまり使わないように言われる」


「どうして?」


「今の標準用語と違うから。試験対策には向かないって」


「古い分類って、間違ってるの?」


 リゼットは少し考えた。


「分からない。でも、授業では扱わない」


 いかにも学生らしい答えだった。

 それが少しだけおかしくて、少しだけ怖かった。


 授業で扱わないものは、試験に出ない。

 試験に出ないものは、覚えなくていい。

 覚えなくていいものは、いずれ誰も知らなくなる。


 リゼットは私のノートを覗き込んだ。


「そんなに細かく調べるつもり?」


「少し気になっただけ」


「ミナらしいね」


「そう?」


「うん。端っこの言葉ばかり拾うところ」


 リゼットはそう言って、いつものように少し笑った。


 私は返事をしようとして、できなかった。


 端っこの言葉。


 中心にある理論より、欄外の注釈。

 大きな定理より、削られた1文。

 成功した呪文より、止まった呪文。


 自分がどこへ向かっているのか、少しずつ分からなくなっていた。


 夕方、寮に戻る前に、私は講義録を棚へ戻そうとした。


 そのとき、切り取られた頁の根元に、黒い点のようなものが見えた。


 埃かと思って指で払おうとして、手を止める。


 文字だった。


 紙の繊維に隠れるように、かすれた手書きの注釈が残っている。


 私は講義録をもう一度机に置き、目を凝らした。


 そこには、短くこう書かれていた。


 ――忘却は副作用ではない。


 続きは、切り取られていた。


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