第4話 いつもの研究室
エリアスの死から4日後も、黒曜呪式研究室の朝はいつも通り始まった。
朝9時には全員が席につき、10時にはゼミが始まる。
黒板には、昨日のまま消されずに残った呪式の残骸。机の上には論文束、冷めた珈琲、使いかけの魔力石。誰かが灯火呪文を唱え、天井の古いランプが順番にともる。
その瞬間、上級生の1人が「あれ」と呟いた。
「何を取りに立ったんだっけ」
近くにいた導師が笑う。
「魔法疲れだろう。ゼミ前から飛ばすな」
研究室に小さな笑いが起きた。
いつもなら、私も笑っていたと思う。
けれどその朝は、うまく笑えなかった。
魔法の後に少しぼんやりすることは珍しくない。学院ではそれを「術後混濁」と呼ぶ。頭痛も、物忘れも、思考の乱れも、たいていその1言で片づけられる。
便利な言葉だった。
今日のゼミの題目は、魔法陣の線幅と魔力効率についてだった。
発表者のリゼットが、緊張した顔で黒板の前に立つ。
「低位治癒呪式において、魔法陣の外周線を細くすると、初期発動に必要な魔力量が下がる傾向があります。ただし、線幅を一定以下にすると、回復量のばらつきが大きくなります」
黒板に、いくつもの円と補助線が描かれていく。
私はノートを開いた。
典究課程の1年目は、まだ自分の研究テーマを探す時期だ。
私は今のところ、魔法陣の形と効率の関係に興味があった。強い魔法を作りたいわけではない。むしろ、小さな呪文がどう安定し、どう無駄を減らして発動するのかを知りたかった。
地味すぎる、と上級生には笑われたことがある。
でも私は、そういう細部が嫌いではなかった。
同じ灯火呪文でも、円の角度が少し違うだけで光の揺れ方が変わる。治癒呪式でも、線の太さひとつで魔力の流れが鈍る。
魔法は華やかに見える。
けれど、実際の研究はたいてい細くて地味な線を引き直す作業だった。
質疑の時間になり、上級生が手を挙げる。
「術者の疲労と術後混濁は分けて扱うの?」
「今回は区別していません。小規模呪式なので、結果への影響は小さいと考えています」
導師が頷いた。
「妥当だね。まずは図形要因に絞った方がいい」
そのまま議論は、外周線の角度と魔力石の配置へ移った。
私はノートに、そのやり取りを書き残した。
術者の疲労と術後混濁は、今回は区別しない。
ただの条件整理。
ただの研究上の割り切り。
そう分かっているのに、その1行だけが妙に気になった。
ゼミが終わると、皆はいつものように散っていった。
リゼットは黒板を消しながら、小さく息を吐く。
「ひどかった?」
「ううん。分かりやすかった」
「本当に?」
「本当に。線幅のところ、面白かった」
リゼットは少し笑った。
「ミナはそういうの好きだよね。細かい形の話」
「まだ研究テーマってほどじゃないけど」
「でも、合ってると思う。ミナ、派手な呪文より、端っこの歪みを見てるときの方が楽しそう」
そう言われて、私は黒板の消えかけた円を見た。
端っこの歪み。
たしかに、私はそういうものが気になる。
中心よりも、周辺。成功例よりも、うまく説明されない小さなズレ。
エリアス先輩が言っていた「再現できない」という言葉も、たぶんそのせいで耳に残っている。
昼過ぎ、私は自分の机に戻り、来週の面談用に研究テーマの候補を書き出した。
低位治癒呪式における線幅と魔力効率。
灯火呪文の魔法陣形状と揺らぎ。
補助線の省略が発動安定性に与える影響。
どれも悪くない。
けれど、どれも決め手に欠けた。
その間にも、研究室では小さな魔法が何度も使われていた。
紙束を浮かせる魔法。
扉の鍵を開ける魔法。
冷めた珈琲を温め直す魔法。
いつもの風景だった。
私はそれを、いつものように見られなくなっていた。
夕方、寮に戻ってから、私は机に向かって手帳を開いた。
今日のゼミの題目。
リゼットの発表内容。
導師の質問。
自分の研究テーマの候補。
それらは、ちゃんと文字として残っていた。
私は少しだけ安心した。
そして、その安心が怖かった。
いつから私は、自分の記憶よりも手帳を信じるようになったのだろう。
手帳の最後の頁を開く。
そこにはまだ、あの1行が残っていた。
――私は、帰っていない。
消えていないことに、私はまた安心した。
そのことが、いちばん怖かった。




