第3話 記憶と記録
エリアスの死から4日目、私は奇妙なことに気づいた。
「エリアス先輩って、甘い珈琲が好きだったよね」
報告会の前、リゼットがそう言った。
私は顔を上げた。
「違うよ。いつも何も入れずに飲んでた」
「そうだっけ」
「そうだよ。私が砂糖を渡したとき、ひどい顔をしてた」
そこまで言って、不安になった。
本当に、渡しただろうか。
銀縁の眼鏡。眠そうな目。黒い珈琲。
思い出せる。
でも、指で触れようとすると、水面の影みたいに揺れる。
報告会では、エリアスの名前は1度も出なかった。
大魔導師アウレリウスはいつも通り穏やかで、導師たちはいつも通り忙しそうで、上級生たちはいつも通り疲れていた。
ただ、窓際の空席だけが、きれいすぎた。
報告会のあと、私は研究室の何人かに話しかけた。
「エリアス先輩の発表題目、覚えていますか」
3年目の典究生は首をかしげた。
「記憶再構成呪文の再現実験じゃなかった?」
「それはアウレリウス先生の論文です」
「じゃあ、何だったかな」
別の上級生は、エリアスが眼鏡をかけていなかったと言った。リゼットは、彼の席が窓際ではなく資料棚の横だった気がすると言った。
誰も完全に忘れているわけではない。
でも、少しずつ違っていた。
それがいちばん怖かった。
昼過ぎ、私は資料室の片隅で手帳を開いた。
これからは、覚えていることを書いておく。
記憶が信用できないなら、記録に残せばいい。
それは研究の基本でもあった。
エリアス・ヴェイン。
黒曜呪式研究室、典究課程の上級生。
銀縁の眼鏡。
窓際の席。
珈琲は無糖。
記憶再構成呪文の再現実験に疑問を持っていた。
最後に残した言葉。
――この呪文は再現できない。
そこまで書いて、手を止めた。
書けば書くほど、研究室全体が少しずつエリアスを失っていくように思えた。
いや、違う。
失っているのは、エリアスではない。
エリアスについて覚えていたはずの、私たちの何かだ。
夜、寮の部屋に戻ってからも、その不安は消えなかった。
私は今日の違和感を書き足し、手帳を閉じて枕元に置いた。
その夜、夢を見た。
資料室の試験盤が白く光っている。
盤面には、あの文字が浮かんでいた。
像形成を保留。
窓際の席に、エリアスが座っている。
でも、顔が見えない。
眼鏡をかけていたかどうかも、分からない。
目が覚めたとき、部屋はまだ暗かった。
水を飲もうとして、枕元の手帳に手が当たった。手帳が床に落ち、ぱらぱらと頁がめくれる。
最後の頁で、止まった。
そこに、文字があった。
今日書いた記録ではない。
インクは乾ききっていて、頁の端は少し擦れている。
私の筆跡だった。
けれど、書いた覚えはない文字。
――私は、帰っていない。




