第2話 止まる呪文
エリアスの死から3日後、黒曜呪式研究室は平常に戻った。
朝9時には全員が席につき、10時には報告会が始まる。羽根ペンが紙を擦る音。魔力装置の低い振動。誰かの小さな詠唱。
何も変わっていない。
そう見えることが、いちばん気味悪かった。
窓際にあったエリアスの机は、きれいに片づけられていた。論文束も、黒い実験帳も、珈琲の染みさえ残っていない。最初からそこに誰もいなかったみたいだった。
報告会の終わりに、大魔導師アウレリウスは言った。
「エリアスの未発表資料は、私が預かっている。君たちは自分の研究に戻りなさい」
誰も反論しなかった。
私は机の下で、袖の内側を押さえた。
そこには、あの夜に拾った羊皮紙の欠片がある。
――この呪文は再現できない。
報告会のあと、私は資料室へ向かった。目的は、アウレリウスの論文だった。
題名は『残留魔力に基づく記憶再構成呪式の構成』。著者欄の1番上にはアウレリウスの名があり、その下に導師たちの名が続く。エリアスの名前はなかった。
手順の章を開く。
第1層、供物の処理。
第2層、魔力残渣の固定。
第3層、記憶像の抽出。
第4層、投影結界への転写。
用語は正確で、呪式図も分かりやすい。けれど、奇妙だった。
分かりやすい。
なのに、手が動かない。
私は別紙に呪式の流れを書き写した。
第1層から第2層へ。
第2層から第3層へ。
第3層から記憶像へ。
そこで、線が止まった。
論文では、その部分が1文で済まされていた。
――魔力残渣の自然収束を待ち、像形成へ移行する。
自然収束。
便利な言葉だった。
けれど、魔力は勝手に都合よくまとまったりしない。
私は閲覧台の小さな試験盤を借り、呪式を最小限だけ組んでみた。供物は使わない。魔力残渣も流さない。ただ、呪式の骨格だけをなぞる。
第1層は通る。
第2層も安定する。
第3層に入った瞬間、試験盤が白く瞬いた。
失敗、ではなかった。
呪式が崩れたのではない。
誰かに手首を掴まれたみたいに、ぴたりと止まった。
盤面に、細い文字が浮かぶ。
像形成を保留。
中断ではなかった。
失敗でもなかった。
保留。
まるでこの呪文が、何かを待っているみたいだった。
論文をめくり直す。保留条件。例外処理。どこにも説明はない。
「ミナ」
振り返ると、リゼットが立っていた。同じ典究課程の1年目で、治癒呪式を専門にしている。
「その論文、触らない方がいいよ」
「どうして?」
「アウレリウス先生が、再現実験をしばらく止めるって。危険性が確認されるまで、学生は触るなって」
「危険性って?」
リゼットは答えず、試験盤を見た。
「それ、何か出た?」
「像形成を保留、って」
「保留?」
「論文には書いてない」
リゼットは少し黙った。
「……エリアス先輩も、同じこと言ってた気がする」
「同じこと?」
「分からない。でも、変だな」
彼女は額に指を当てた。
「思い出せそうで、思い出せない」
資料室の魔力装置が、低く鳴った。
試験盤の文字はもう消えていた。
白い光が消えたあと、ガラスの端に細いひびが入っている。
そのひびは、第3層から記憶像へ向かう線の上で止まっていた。
まるで、その先へ進むことだけを拒んだみたいに。
私はもう一度、試験盤に指を置いた。
何も起きない。
けれど、しばらくして、盤面の奥に薄い文字が浮かんだ。
保留中。
私は息を止めた。
呪文は終わっていなかった。




