第1話 この呪文は再現できない
王立魔法科学院の北棟は、夜になると少しだけ呼吸をする。
窓枠の防護呪文が青白く明滅し、廊下には失敗した召喚式の焦げた匂いが漂っていた。昼間は格式ある研究棟も、深夜二時を過ぎれば、疲れ果てた若い研究者たちの墓場みたいなものだった。
私は欠伸を噛み殺しながら、黒曜呪式研究室の扉を押した。
「まだいたのか、ミナ」
振り向いたのは、机の上に魔法陣を三重に展開していた先輩、エリアスだった。銀縁の眼鏡の奥で、いつも眠そうな目が、今夜は妙に冴えている。
「エリアス先輩こそ。昨日の術理会議、発表が終わったばかりでしょう」
「あれを見たら、眠れないよ」
彼の指先には、光の粒で組まれた呪式列が浮かんでいた。
大魔導師アウレリウスが発表した「記憶再構成呪文」。死者の残留魔力から、生前最後の記憶を映し出すという新呪文だった。
昨日の術理会議で、アウレリウスはそれを実演してみせた。
壇上に置かれたのは、三日前に息絶えた伝書梟の小さな骨。彼が杖で魔法陣をなぞると、骨の上に淡い光が立ちのぼり、梟が最後に見た空の映像が現れた。
夕焼けの雲。
王都の尖塔。
それらが、同じ高さに並んで見えていた。
会場は、しばらく声を失った。
それから、割れるような拍手が起きた。
大魔導師とは、王立魔法科学院で最高位の研究者に与えられる称号だ。強い魔法が使えるだけでは足りない。新しい呪文体系を作り、論文を書き、弟子を育て、王国の魔法学そのものを前に進めた者だけがそう呼ばれる。
そのアウレリウスが、全員の前で成功させた。
だから誰も疑っていなかった。
「再現実験ですか」
「そう。論文に載っていた手順を、そのまま試してる」
エリアスは魔法陣の一部を指で弾いた。硝子を叩いたような音がして、式がわずかに歪む。
「でも、何度やっても同じところで崩れる。ここだ」
彼が示したのは、呪式列の中ほどにある小さな接続部だった。私には、細い光の糸が少し絡まっているようにしか見えない。
「論文通りに組むと、この段階で位相が反転する。記憶の抽出じゃなくて、残留魔力の散逸が起きる」
「でも、昨日は成功していました」
「だから、おかしいんだ」
エリアスは声を落とした。
「あの実演は本物だった。少なくとも、見えていた現象は本物だ。でも、この論文に書かれた呪文では、あれは起こせない」
背筋が冷えた。
私は典究課程に入ったばかりだった。典究課程とは、魔法使いが研究者になるための最終課程だ。自分の研究テーマを持ち、誰も知らない呪文や理論を見つけ、典究論文としてまとめる。修了すれば、王国公認の研究魔導師として認められる。
けれど、そこに至る道は長く、細く、たいてい暗い。
奨学金。実験設備。発表機会。推薦状。そのすべてを、大魔導師アウレリウスは握っていた。
「先輩は、何を疑っているんですか」
「分からない。実演にだけ別の式を使ったのか。論文から重要な条件を抜いたのか。それとも、僕が何かを見落としているのか」
最後の言葉だけ、少し弱かった。
エリアスは黒い実験帳に数行を書き足し、眠気を追い払うように目元を押さえた。
「今日はここまでにする。間違いなら、間違いだと分かるところまで確かめたい」
「手伝いましょうか」
「いいよ。ミナは明日の輪講資料、まだ終わってないだろ」
「……どうして知ってるんですか」
「典究課程の一年目は、みんな同じ顔をしてる」
そこでようやく、エリアスはいつもの眠そうな顔で少しだけ笑った。
翌朝、エリアスは死んでいた。
場所は北棟地下の隔離実験室。内側から封印された密室だった。壁一面に記憶再構成呪文の魔法陣が焼き付き、床には砕けた水晶核と焦げた羊皮紙が散らばっていた。
死因は不明。
外傷はない。毒の痕跡もない。魂魄の損傷も見られない。
ただ、彼の右手だけが黒く炭化していた。まるで最後の瞬間まで、何かを書き残そうとしていたかのように。
学院警備官は事故だと言った。導師たちは実験の暴走だと言った。
大魔導師アウレリウスは、深い悲しみを湛えた顔で言った。
「エリアスは優秀だった。だが、才能ある若者ほど、時に己の限界を見誤る」
私は何も言わなかった。
ただ、隔離実験室の床に落ちていた羊皮紙の欠片を、誰にも見られないよう袖の中へ滑り込ませた。
そこには、震える文字で一行だけ記されていた。
――この呪文は再現できない。
その夜から、私は黒曜呪式研究室の全員を疑うことにした。




