70. 王の祈りと幼子の涙
【国王視点】
あの後――
幼子二人からレオンハルトを引き離すのは、想像以上に骨が折れた……。
無理もない。
恐怖の中を必死に逃げ、
ようやく“味方だと信じられる大人”に辿り着いたというのに、
その大人と再び離され、
知らぬ者たちに囲まれるのだから。
あの小さな手が、レオンハルトの服を握りしめていた。
爪が食い込むほどに。
あの光景が、胸に刺さって離れない……。
……リオン様がいてくださることだけが、唯一の救いだ。
今、リオン様と幼子二人は、
王城の奥にある客室で休んでもらっている。
重厚な扉の向こう、静まり返った廊下に、
かすかに子どものすすり泣きが響いた気がして、心が痛んだ。
レオンハルトが去ってから、
二人は一言も発しようとせず、
ただリオン様にしがみついて離れない。
その瞳には――
今は“知らない人間すべて”が、恐怖の影として映っているのだろう。
今までフォレットでたくさんの冒険者に囲まれて笑っていたというのに、
まったく別人のようになってしまっている。
あんなに幼い子に、
どうしてここまでの苦しみを背負わせねばならぬのか。
(……どうか、この世界を嫌いにならないでくれ……)
胸の奥で、祈るような言葉がこぼれた。
執務室へ戻ると、
遮音結界が施された分厚い扉が静かに閉まり、
部屋の空気が重く沈んだ。
壁には、大きな国の地図。国のあちこちの写真、そして、家族の絵画。
窓の外は夕暮れで、
橙色の光が長い影を落としている。
暗くなってしまっている心のせいか、
その影が、まるで国の未来を暗示しているようで、
胸がざわついた。
(いけない。どうにか気持ちを切り替えねばな……)
机の前には、宰相セドリックが立っていた。
書類をまとめ、私を待っていたのだろう。
その瞳には、深い疲労と痛みが宿っていた。
昨日の幼子たちの姿――
あれは、心に深い傷を残す光景だったようだ。
私も同じだ。
胸の奥に、希望と、どうしようもないもどかしさが渦巻いている。
セドリックは獣人だ。
幼い頃、セイナ王国の街で差別を受けて育ったと聞く。
石を投げられたこともあると。
だからこそ、
“幼子を利用しようとする者”に対して、
誰よりも心を痛めているのだろう。
あの第三王子――
あれは危険だ。
A級冒険者となり、力を振りかざすことに酔っている。
戦争の火種を撒くことにも躊躇がない。
王子が何を背負っているかもわかっていない。
黒いオーラという共通の脅威が迫っているこの時期に、
なんと愚かな行動か。
胸の奥で、静かな怒りが燃えた。
(……落ち着け。今は感情で動いてはいけない)
私は深く息を吸い、
机に置かれた書類に手を伸ばす。
「宰相、書類を。
まずはセイナ王国に書状を送らねばならん。
あの問題児を、どうにか引き取ってもらわねば」
「……はい」
セドリックの声は沈んでいた。
肩が重く垂れ下がっている。
私は彼の名を呼んだ。
「セドリック」
彼が顔を上げる。
「共に乗り越えよう。
あの子たちのために。
この世界のために」
セドリックの瞳が大きく見開かれ、
そして――静かに笑った。
「もちろんですとも」
その笑みは、
長い夜のような中で灯った、国王にとって、小さな勇気をくれる光のようだった。
***
それから――
書類と、次々と舞い込む追加情報をまとめ続け、
ようやく“状況の全体像”がぼんやりと見えてきた。
机の上には、積み上がった書類の山。
蝋燭の炎が揺れ、その影が書類の端を不規則に照らしている。
窓の外はすでに夜の帳が降り、
王城の石壁が冷たく沈黙していた。
「夜は静かで仕事が捗る」
私は深く息を吐き、
セイナ王国への書状をようやく書き終えた。
・商人とゴロツキの強引な探りにより、フォレットの治安が悪化していること
・第三王子が所属する黒雷のドラグーンが、
マグリル王国フォレット支部所属A級冒険者のパーティーホームへ
無断侵入し、破壊行為を行い、3歳と2歳の幼児を攫おうとしたこと
・三か国による黒いオーラ対策の極秘事項の密談会のお誘い
「……こんなところだろうか」
静かに呟き、セドリックに書状を渡す、
隣で控えていた宰相セドリックが書状を受け取り、
もう一度目を通してから、深くうなずいた。
「問題ございません、陛下」
蝋燭の光が、セドリックの横顔に深い影を落とす。
その影は、彼のこれまでの胸中の痛みを現すように揺れていた。
(セイナ王国の国王は、元商人。
掴みどころのない男だが、人を見下すような心根は持っていない。
国民は商人気質で、統率は大変そうだが……
第三王子の件では、騒動のたびに誠実に対応してくれた。
あの王も、手に余しているのだろうな)
第三王子――
あれは、もともとそういう気質はあったようだが、
A級冒険者となって、力を振りかざすことに酔い、
戦争の火種を撒くことに躊躇がなくなった。
(あの行動力を、別の方向に向けられれば……
どれほどの功績を残せただろうに。もったいない)
私は緊急伝達魔法陣の刻まれた石板に手をかざした。
「――《伝達》」
黄緑色の光がふわりと立ち上がり、
書状は一瞬で光に溶けて消えた。
魔法陣の光が消えると、
執務室は再び静寂に包まれた。
「……これでまずは一つ片付いたな」
「次は、研究国家リシュネーゼ帝国への研究依頼の件でございますね」
セドリックの声は低く、疲れていた。
「セドリック、このところ休めていないだろう。
今日はもう休んでいいんだぞ」
「いえ、もう少し霧のいいところまでやります」
「ほどほどにな」
「それはこちらの言葉です」
言い返されて、思わず笑ってしまった。
この男も頑固な事だ。体を壊さないか心配だ。
軽くため息を吐き、
私は黒いオーラ研究チームに関する書類を手に取る。
リシュネーゼ帝国――
研究に命を懸ける者たちの国。
その成果は、我が国の冒険者たちの生存率を大きく上げてくれた。
だが、一枚岩ではない。
心根の悪い者もいる。
研究のためなら手段を選ばぬ者もいる。
(……だからこそ、信頼できる者だけに任せねばならぬ)
今回、こちらに協力したいと言ってくれた研究員。
アレクに命を救われ、
ヒナに街を救われたと語った男。
(研究員で研究対象に近づく為に、
危険を冒してまでフォレットで冒険者になったという。
なんとも研究者らしいというか、無理しすぎだろうというか。
そんな中で、命を支える友と出会い、
愛する者を見つけ結婚をし、
フォレットの一員として、冒険者として、経験を積み、
B級まできたあるとき、アレクに命を救われたと。
そして街をヒナに救われたと。
いい10年をフォレットで送ることが出来たのだな)
そんなことを考えているうちに、
窓の外はすっかり真っ暗になっていた。
「あー。……夕食も食べ損ねたな」
「そうですね。
何か軽いものを持ってこさせましょう」
「頼む。
それと……リオン様とアレク、ヒナは、少しは落ち着けただろうか」
胸が痛む。
あの小さな手の震えが、まだ忘れられない。
「様子を見ていたメイドによると、
ずっとリオン様から離れようとせず、メイドも寄せ付けないとか」
「明日、子供たちと一緒に様子を見に行こう。
少し話も出来ればいいのだが……」
宰相もキリのいいところまで仕事を終え、やっと帰って行った。
軽い食事を済ませ、
ソファに腰を下ろして一息ついていると、
コンコンッ。
控えめなノックの音。
扉が開き、私の四番目の子、リアが顔を覗かせた。
まだ四歳の娘だ。
こんな時間にどうしたのか。
「リア、どうしたんだい?こっちへおいで」
手を広げると、
リアは悲しそうな顔でトテトテと走り寄り、
ぎゅっと抱きついてきた。
抱き上げて膝に乗せ、頭を撫でると、
ぽろぽろと涙がこぼれた。
「リア、どうした?
嫌な夢でも見たのか?」
リアは涙を拭いながら、震える声で言った。
「あのね……
わたしよりちいさなこたちの、なきごえがきこえるの。
とってもつらそうに、ないてるの。
それをきいていたら……
わたしも、かなしくなってきたの。
だからね……
なんとかしてあげたいの。
そばにいて、おとうさまみたいに、
そのこたちを、だきしめてあげたいとおもったの。
わたしは、かなしいことがあったとき、
おとうさまやおかあさま、おにいさまやおねえさまに
ぎゅっとしてもらえると、げんきになるの。
だから、そうしたら、すこしでもげんきになるかなって……。
ずっとかなしいのは、いやだから……
あってもいい……?」
胸が熱くなった。
(……この子は、いつの間にこんなにも優しく育ってくれたのだろう)
「リア……ありがとう。
父様は、リアがそう言ってくれて、とても嬉しいよ」
私は娘の頬をそっと拭った。
「あの子たちは、とても辛い思いをしてここに来たんだ。
親しい大人や友達とも離されて、心細いだろう。
明日、紹介するから……
お友達になって、話を聞いてあげてくれるかい?」
リアは涙を拭き、ぱっと顔を明るくした。
「とうさま!
わかったわ!
わたしにまかせてっ!」
むんっ!と胸をはって見せるリア。
(泣いたと思ったら、もう笑顔か……
なんとも頼もしい、優しい子に育ったものだ)
「リアがそう言ってくれると、心強いよ。
頼んだぞ」
「うん!」
その笑顔が、重く沈んだ夜の中で、
ひときわ明るい光に見え、暗くなった心を照らしてくれたのだった。




