第9話:崩落の音す
音を立てて崩れ去るのは、虚栄心と、偽りの日常と、すがりついていた細い糸。
それぞれの場所で限界を迎えた私たちは、もう二度と引き返せない夜の底へと滑り落ちていく。
その日、菜穂は病院のロッカールームで、制服のポケットからスマートフォンの画面を見つめていた。
画面に表示されていたのは、母親からの「今夜は遅くなるの?」という事務的なメッセージと、もう一つ、ずっと放置していた地元の友人からの連絡だった。
(私、ここで何してるんだろう……)
ネイビーのスクラブに身を包み、患者の前では理路整然とリハビリの指導をこなし、実家に帰れば親の敷いたレールの上で息を潜める。その安定という名のぬるま湯が、いまや自分の首を絞めるロープのように感じられて仕方がなかった。
「……もう、限界だな」
呟いた声は、誰にも届かずにロッカーの金属音にかき消される。菜穂はスマホの電源を容赦なく切り、そのままロッカーの奥底へと放り投げた。引き返すための連絡網を、自らの手で断ち切った瞬間だった。
その頃、葵のスマートフォンは、ホストクラブからの未払いの督促と、高額な決済完了の通知音で鳴り止まなくなっていた。
「……っ、嘘……」
口座残高の数字を確認した葵は、六本木の路上で思わず足元から崩れ落ちそうになった。実家の親名義のカードも、すでに限度額に達している。頼みの綱だった男に連絡を入れても、「金のない女に用はない」と冷たく着信拒否を言い渡された。
積み上げてきたプライドも、札束で築いた偽りの居場所も、すべてが砂上の楼閣のように音を立てて崩れ去っていく。
「ふざけんな……ふざけんなよ……!」
冷たい夜風の中、葵は誰にも見られない路地裏で、高級なコートの裾を泥まみれにしながら初めて声を上げて泣いた。
そして、咲良はあのホテルの部屋に一人きりで取り残されていた。
投げ捨てられた千円札を拾い集めることもせず、咲良はボロボロになったスニーカーを乱暴に突っ掛け、外へと飛び出した。
すがるべき男の顔も、温もりも、もうどこにもない。あるのは、自分がどれほど安っぽく、踏みにじられても文句の言えない存在だったという残酷な事実だけだった。
(私には、本当に何も残ってない……)
夜の冷気が、薄手のコートを通り越して肌を突き刺す。行くあてもないまま、咲良はただあてどなく、街の喧騒の中を歩き続けるしかなかった。
それぞれの場所で、逃げ場が完全に粉々に砕け散る。
29歳という停留所を外れた私たちは、もう二度と元の道に戻ることができない闇の中へと、それぞれに滑り落ちていく。




