第8話:加速する歪み
一度入ったヒビは、もうどんな取り繕いでも隠せない。
白々しい日常の裏で、それぞれの歪みが音を立てて加速していく。
誰にも止められない破滅の坂道を、私たちはただ転がり落ちていくしかない。
恵比寿の夜から数日後。
日常は何も変わっていないはずなのに、一度ヒビが入った関係と精神は、もう元の形には戻らなかった。
病院のナースステーションで、菜穂はカルテをめくる手を突然止めた。
「……川端さん、どうしました?」
後輩の看護師に声をかけられ、ハッと我に返る。何気なく聞いた患者の家族の会話、あるいは同僚の世間話のすべてが、やけに白々しく耳障りに響いた。
(あぁ、私、何やってんだろ)
実家に戻れば、母親がいつも通り夕食の支度をして待っている。その「当たり前の日常」が、今は息の詰まるような猛毒の檻にしか思えない。自分の人生の決定権を放棄したまま、他人のリハビリに付き合っている場合なのか。心の中にぽっかりと空いた穴は、もはや忙しさでごまかすことすらできなくなっていた。
その頃、六本木の高級クラブの片隅で、葵はグラスの底を見つめていた。
スマホの画面には、ホストの男からの未読メッセージが並んでいる。
「……もう、どうでもいいか」
そう呟きながらも、指は勝手に決済画面を開き、手持ちの貯金を切り崩して大金を振り込んでいた。菜穂に裏垢を見抜かれた恥と、自分の惨めさ。それを認めたくないがために、葵はさらに狂ったように札束をホストの数字へと変えていく。破滅に向かっていると分かっていながら、アクセルから足を離すことができない。
そして、咲良は相変わらずホテルの冷えたシーツの上にいた。
「……ねえ、今度さ、ご飯だけでもいいから、外に連れてってよ。たまにはさ……」
ベッドの端で身を縮こまらせながら呟いた咲良に、男は面倒くさそうにタバコの煙を吐きかけ、枕元に乱雑に千円札を数枚投げ捨てる。
「は? お前と外歩くとか無理だろ。都合のいいときだけ抱かせてくれればそれでいいんだよ」
突きつけられた露骨な拒絶と侮蔑。プライドなどとうの昔に捨てたはずなのに、なぜかその瞬間、咲良の胸の奥で何かがプツリと音を立てて切れた。
男の背中にすがる気力すら消え失せ、冷え切った床に散らばった紙幣を見つめながら、咲良は初めて、自分の人間としての価値の底が抜けたことを思い知らされていた。
誰もが、それぞれの限界へ向けて坂道を転がり落ちている。
29歳の停留所。バスはもうとっくに発車していて、私たちはただ、取り残された場所で泥を啜り続けている。




