↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/14

第8話:加速する歪み

一度入ったヒビは、もうどんな取り繕いでも隠せない。

白々しい日常の裏で、それぞれの歪みが音を立てて加速していく。

誰にも止められない破滅の坂道を、私たちはただ転がり落ちていくしかない。

恵比寿の夜から数日後。


日常は何も変わっていないはずなのに、一度ヒビが入った関係と精神は、もう元の形には戻らなかった。


病院のナースステーションで、菜穂はカルテをめくる手を突然止めた。


「……川端さん、どうしました?」


後輩の看護師に声をかけられ、ハッと我に返る。何気なく聞いた患者の家族の会話、あるいは同僚の世間話のすべてが、やけに白々しく耳障りに響いた。


(あぁ、私、何やってんだろ)


実家に戻れば、母親がいつも通り夕食の支度をして待っている。その「当たり前の日常」が、今は息の詰まるような猛毒の檻にしか思えない。自分の人生の決定権を放棄したまま、他人のリハビリに付き合っている場合なのか。心の中にぽっかりと空いた穴は、もはや忙しさでごまかすことすらできなくなっていた。



その頃、六本木の高級クラブの片隅で、葵はグラスの底を見つめていた。

スマホの画面には、ホストの男からの未読メッセージが並んでいる。


「……もう、どうでもいいか」


そう呟きながらも、指は勝手に決済画面を開き、手持ちの貯金を切り崩して大金を振り込んでいた。菜穂に裏垢を見抜かれた恥と、自分の惨めさ。それを認めたくないがために、葵はさらに狂ったように札束をホストの数字へと変えていく。破滅に向かっていると分かっていながら、アクセルから足を離すことができない。



そして、咲良は相変わらずホテルの冷えたシーツの上にいた。


「……ねえ、今度さ、ご飯だけでもいいから、外に連れてってよ。たまにはさ……」


ベッドの端で身を縮こまらせながら呟いた咲良に、男は面倒くさそうにタバコの煙を吐きかけ、枕元に乱雑に千円札を数枚投げ捨てる。


「は? お前と外歩くとか無理だろ。都合のいいときだけ抱かせてくれればそれでいいんだよ」


突きつけられた露骨な拒絶と侮蔑。プライドなどとうの昔に捨てたはずなのに、なぜかその瞬間、咲良の胸の奥で何かがプツリと音を立てて切れた。

男の背中にすがる気力すら消え失せ、冷え切った床に散らばった紙幣を見つめながら、咲良は初めて、自分の人間としての価値の底が抜けたことを思い知らされていた。


誰もが、それぞれの限界へ向けて坂道を転がり落ちている。


29歳の停留所。バスはもうとっくに発車していて、私たちはただ、取り残された場所で泥を啜り続けている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。