第10話:菜穂の朝
実家のぬるま湯と、大病院のスクラブ。
安定という名の檻から飛び出した菜穂が迎えた、初めての静寂と、冷え切った自立の朝。
スマホの電源をロッカーの奥底に放り投げたその日から、菜穂の周囲の音はぴたりと止まった。
実家に帰っても、母親の小言は聞こえないふりをした。いつも通り朝が来て、ネイビーのスクラブに袖を通し、大病院の廊下を歩く。言語聴覚士として患者の喉の動きを確認し、発話のリハビリを淡々とこなす。外見上は、昨日までと何ひとつ変わらない「真面目な医療従事者」の日常だった。
だが、その内側は完全に音を失っていた。
(私は、何のためにこの仕事をしていたんだっけ)
患者と向き合う自分の声が、どこか遠くの他人のもののように響く。
これまでは「親の期待に応えるため」「安定した医療職という安全牌を手放さないため」に、自分の人生の決定権を無意識に放棄し続けてきた。そのぬるま湯の温もりに甘えていたからこそ、いざ他人の敷いたレールから足を外し、スマホの電源を落とした瞬間、足元に広がっていたのは底知れない虚無だった。
定時になり、病院を出ると、冷たい夜風が肌を刺した。
いつもなら、この時間は母親から「今日のご飯はどうするの?」とメッセージが入る頃だ。けれど、電源の入っていない画面をポケットの中で握りしめても、当然ながら何の振動もない。
誰にも管理されない。誰の期待にも応えなくていい。
それがこれほどまでに自由で、そして、これほどまでに心細いものだとは知らなかった。
実家への帰り道、いつもは通り過ぎるだけのコンビニの明かりに引き寄せられるように、菜穂は足を止めた。
誰にも頼らず、誰の顔色もうかがわず、自分の足でこの冷たいアスファルトを踏みしめる。それは壊滅的な一歩であると同時に、29年目にして初めて、自分の人生のハンドルを自分で握り直した瞬間でもあった。




