第3話:ドレスの底なし沼
愛ではなく、数字に群がる。
どれだけ札束を積もうとも、心の底の空洞は1ミリも埋まらない。
満たされているはずの環境から逃げるように夜の闇へ飛び込み、男の甘い毒に溺れていく。それは自傷か、それとも救いを求める叫びか。
「――でさ、今月も売り上げ足りなくて、担当に泣きつかれたわけ」
六本木のラウンジの控室。
葵は、隣の席でヘアメイクを直している同期のキャストの鏡越しの顔を見ながら、どこか投げやりな笑みを浮かべた。
「また? 葵ちゃん、この前も数十万入れたばかりじゃん。そんなに貢いで、あいつ何かしてくれるわけ?」
「何もしてくれないよ。ただ、お店のランキングが落ちると面倒くさい顔するからさ……」
ため息をつきながら、葵はバッグのなかにしまいこんだ未読のメッセージ画面を思い出す。
『今夜、顔出してよ。待ってるから』
それだけの文面に、何度心臓を跳ねさせられたことか。ホストの男に本気で惚れているわけではない。そんなことは分かっている。自分の冷めた部分が、
「こいつは私をただのATMとしか思ってない」
と冷静に警報を鳴らし続けている。
それでも、目の前で自分のためにシャンパンを開けさせ、嬉しそうに笑う顔を見ている瞬間だけは、自分が「生きていて、女として価値がある」という錯覚に浸ることができた。
実家に帰れば、広いリビングと、何も言わずに高級な食材を冷蔵庫に詰め込んでくれる両親がいる。
衣食住に困ったことなど一度もない。就職活動だって、親のコネや仕送りのおかげで苦労知らずだった。
「葵は不自由のない家に生まれていいね」
と、周囲からは散々羨ましがられてきた。
だからこそ、澱んでいた。
その「恵まれた平穏」のなかに何の手柄もなく収まっている自分が、たまらなく気味悪かったのだ。
何ひとつ傷つかず、何ひとつ必死にならなくていいぬるま湯の中で、自分の輪郭がどんどん溶けていくような恐怖。
それを紛らわせるために、葵は夜の街へ飛び込み、大金を溶かし、あえてトゲのある茨の道を歩くことでしか、自分がここに存在している実感を得られなくなっていた。
仕事が終わったあと、葵は一人で別のバーのカウンターに座っていた。
「昨日さ、高校のときの友達と久しぶりにご飯食べたんだけどさ」
葵は、カウンターの端でグラスを拭いているバーの店員に向かって、誰にともなく口を開いた。
「へえ、どんな人たちなんですか?」
グラスから視線を外さず、店員が当たり障りのない相槌を打つ。水割りを作る氷の音が、カチャリと耳障りに響いた。
「一人は病院で真面目に働いてるやつで、もう一人は昔から男の影ばっか追いかけてるようなやつ。……なんかさ、久しぶりに見たら、二人ともすっごい必死な顔しててさ」
自分のことを棚に上げているのは分かっている。
実家の金に依存し、ホストに財布を毟り取られている自分が一番滑稽だということも。
それでも、あのイタリアンバルで見た菜穂の冷めた目や、咲良の剥げたネイルを思い出すと、どこか背筋がゾッとするような同族嫌悪が胸を焼く。
私たちは全員、29歳という同じ停留所にいながら、違う種類の歪みを飲み込んでいる。
スマホが震えた。
またあの男からの「今夜は?」という通知だった。
葵はため息ひとつ吐かぬまま、その画面を鮮やかなネイルの指先でスワイプし、返信を打ち、バーを後にした。




