第2話:スクラブの澱み
安定は、時に最も緩やかな毒になる。
世間が認める「普通」のレールの上で、波風を立てずに生きること。それは親を安心させ、自分自身をも欺くための最も手っ取り早い防衛策だ。
だが、若さという猶予の期限が近づくにつれ、その防衛策はただの檻へと姿を変えていく。
守られた日常のなかで、静かに窒息していく魂の在り処。
平日の朝、アラームが鳴る前に母がドアをノックする。
「菜穂、起きてる? 朝ごはんできてるからね」
「……ん、起きてる」
布団から這い出し、顔を洗って一階へ降りれば、焼き魚と味噌汁の匂いが鼻腔をくすぐる。自分で出汁を取る必要もなければ、献立に悩む必要もない。実家という絶対的なセーフティネットのなかで、菜穂の毎朝は驚くほど平穏に、そして退屈に始まっていた。
「ねえ、昨日友達とご飯行ったんでしょ? 誰だっけ、葵ちゃんだっけ。あの子、まだ夜の仕事してるの?」
箸を動かしながら、母親が平然とした顔で聞いてくる。
「さあね。でも、なんか色々拗らせてるっぽかったよ」
「ふーん……。まあ、女の子があんまり遅くまで外をウロウロするもんじゃないよねぇ。菜穂みたいに、ちゃんとした病院で国家資格持って堅実に働いてるのが一番安心だわ」
「……だよね」
生返事を返しながら、菜穂は焼き魚の身を箸でつついた。
「ちゃんとした病院」「堅実」「安心」。
親の口から出てくるその言葉は、心地よい子守唄であると同時に、じわじわと首を絞められるような呪縛でもあった。
――総合病院、リハビリテーション科。
午後の訓練室は、特有の静けさと独特の匂いに包まれていた。
動きやすいネイビーのスクラブに袖を通し、テーブルに向き合う。
「はい、じゃあ次はカードの名前を言ってくださいね」
目の前に座る患者に淡々と指示を出し、タブレットにデータを打ち込む。言語聴覚士としての仕事は、やりがいがないわけではない。失語症や構音障害のある患者が、少しずつ言葉を取り戻していく過程には確かな手応えがある。
けれど、ふとカルテから目を離した瞬間、どうしようもない虚無感が胸を突き上げる。
(私、あと何十年これを続けるんだろ)
職場の人間関係は悪くない。浮いた噂もない代わりに、出会いもない。同期の何人かは結婚や出産といったライフイベントを迎え、SNSの中で自分とは全く違うステージへと進んでいった。
世間一般の基準から見れば、私は「普通で安定した29歳」だ。親も安心している。仕事もある。
だけど、心の中には乾いた風が吹き抜けているだけで、自分の人生がどこへ向かっているのか、そもそも動いているかすら分からない。
「……はあ」
スクラブのポケットに手を突っ込み、小さいため息を飲み込む。
実家を出る理由がない。家賃もかからないし、帰ればご飯が出てくる。ここで一人暮らしを始めたところで、待っているのは孤独なワンルームと、コンビニの惣菜だけだ。
「面倒くさい」を言い訳にして、あらゆる決断を先送りしてきた結果が、この着慣れたスクラブのなかにあった。
仕事帰りの電車の中。
スマホを取り出し、昨日の夜、イタリアンバルで分かれたあとの葵や咲良のグループチャットを眺める。
『次はいつ集まる?』という誰かの軽い一言に、既読がついていく。
誰もが何かを抱え、誰かに依存し、あるいはぬるま湯に浸かりながら、必死に「29歳」という現実の形を保っている。
――私たちはまだ、この停留所にしがみついたまま、動けずにいる。




