第3話 深まる絆と崩壊する王都
ロージーが『死の谷』へと追放されてから、数週間が経った。
王都は、未曾有の大混乱に陥っていた。
空を覆うどす黒い瘴気。
原因不明の熱病が蔓延し、街のあちこちで人が倒れていく。
神殿には救いを求める領民が殺到し、癒やしの力を持たない神官たちはパニックに陥っていた。
ガシャァンッ!
王宮の一室で、ミレイユが空になった小瓶を壁に叩きつけた。
「どうして光らないのよ! あの役立たずの血、もうただの汚い水じゃない!」
隠し持っていたロージーの血を指先に滲ませても、かつてのような神々しい光は一向に放たれない。
体内から抜かれ、鮮度を失った血は、完全に魔力を失っていたのだ。
「このままじゃ……『聖女の座』を奪われる……!」
焦りと恐怖で顔を歪めるミレイユ。
「ミレイユ、大丈夫かい? 今日も光が出ないようだが……」
第一王子の声に、ミレイユはヒッと喉を鳴らし、泣きそうな顔を作った。
「え、ええ……っ。民を救おうと無理をしすぎたせいで……神聖な力がうまく練り上げられないのですわ……っ」
その時、血相を変えた文官が駆け込んできた。
「殿下! 下町で新たに数百人が熱病で倒れました! 神殿も限界です、どうか早急な対策を――」
「ええい、騒々しい! 対策は神殿に任せてあるだろう、私に報告してどうなる!」
第一王子は焦燥を誤魔化すように怒鳴り散らした。
しかし、神殿や兵士たちの間では、すでに致命的な噂が囁かれ始めていた。
――瘴気が晴れない。本当にあの女は、本物の聖女なのか?
偽りの奇跡で塗り固められた栄光は、今まさに音を立てて崩れようとしていた。
◆
一方、ノクタヴェラ公爵邸での穏やかな日々の中で、ロージーの心と体は少しずつ回復していった。
ある晴れた午後。
レイスが最高級の絹で仕立てられた淡い紫のドレスを、ロージーの部屋へと持ち込んできた。
「レイス様……あの、このような美しいものは、ずっと忌み子と呼ばれていたわたしには……もったいなくて」
鏡の中の自分に結晶がないことは、もう分かっている。
それでも、長年「化け物」と罵られ続けた心の傷は、簡単には消えない。
萎縮して俯くロージーの言葉を遮るように、レイスはそっとその手を取り、手の甲に恭しく唇を落とした。
「また、ご自身を卑下する悪い癖が出ていますよ」
熱を帯びた所作に、ロージーの顔がカッと熱くなる。
地下牢で虫けらのように扱われていた自分を、彼はいつも壊れ物のように大切に扱ってくれる。
「あなたには、美しいものを身につける資格があります」
真っ直ぐに向けられた青い瞳に、ロージーはハッと息を呑んだ。
「誰に何を言われようと、あなたはそれを恥じる必要などありません。……どうか、顔を上げてください」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
それなのに、どうしようもなく甘い温かさが広がっていった。
ロージーがずっと欲しかったのは、着飾るためのドレスなどではなく、自分という存在そのものを肯定してくれる声だったのだ。
(……怖い。でも、この人の言葉だけは、嘘じゃない)
ロージーはそっと胸元を握りしめた。
「……はい。レイス様がそう言ってくださるなら」
ロージーは彼の瞳を見つめ返し、ふわりと微笑んだ。
花が綻ぶような、柔らかな笑顔だった。
「……っ」
レイスの動きが止まる。
数秒。彼は何も言わなかった。
やがて、ふっと片手で目元を覆い、深く、ひどく重い溜息を吐き出した。
「レ、レイス様……?」
「……いえ」
低い声がわずかに掠れる。指の隙間から覗く熱を帯びた青い瞳が、逃げ場を塞ぐように彼女を捕らえた。
「あなたは、自分がどれほど無防備で恐ろしいことをしているのか分かっていない」
「え……?」
「……これ以上、私を試さないでいただきたい」
そう呟いた彼の声には、隠しきれない独占欲と仄暗い熱が滲んでいた。
ロージーは彼の言葉の意味が分からず、きょとんと小首を傾げるばかりだった。
◆
その夜。
執務室の机には、王都の凄惨な状況と、ミレイユたちの“偽りの聖女”の真実――そのすべてを克明に記した隠密からの報告書が置かれていた。
「……真の聖女を地下牢に閉じ込め、その血を搾り取り、偽物を崇めた。
その結果が今だ」
執務室の空気が、レイスから漏れ出す冷気で凍りつく。
「……王都への無償支援を、本日をもって終了する」
控えていた部下が息を呑んだ。
「さらに王家への優先供給も停止だ」
「お待ちください! 王都は瘴気で物流が麻痺しております!」
「無論、承知の上だ」
レイスは冷たく答えた。
「だが、我が領は王家の失策を埋め合わせるために存在しているわけではない」
静かな声だった。
しかし、その場の誰も逆らえなかった。
「民との通常取引は許可する。食料が欲しければ正当な代価を払え。
……王家の尻拭いを、我々が無償でする理由はない」
部下は言葉を失う。
レイスは窓の外、遠く王都の方角へ視線を向けた。
脳裏に浮かぶのは――
温かなスープを飲みながら涙を零した少女の姿。
『こんなにも美味しいなんて知らなかった』
たったそれだけの願いさえ与えられなかった少女。
そして、今日初めて自分に向けてくれた、あの愛らしい笑顔。
レイスの瞳が、静かに細められる。
「……あれほど理不尽に傷つけられた少女を、私は見捨てるつもりはない」
その声は低く、静かだった。
だが、その奥に潜む怒りは凍てつくほど鋭い。
「王家への情けは不要だ」
そして、冷酷に命じた。
「――彼女が流した涙の代償を、あの者たちに支払わせろ」
「はっ!」
深く頭を下げた部下が、足早に執務室を後にしていく。
一人残された部屋で、レイスの瞳の奥には、ロージーへの深い愛情に裏打ちされた、暗く冷たい怒りの炎が静かに燃え続けていた。




