第2話 温かいスープと歪んだスプーン
ふかふかとした、雲のような感触。
ふわりと鼻先をくすぐる、やわらかな花の香り。
(……ここは、天国⋯?)
そっとまぶたを開けると、視界いっぱいに広がるのは天蓋付きの豪奢なベッドだった。
いつも視界を覆っていた黒い結晶の影がない。
そして、自分がこんな場所に寝かされていると気づいた瞬間、ロージーの心臓が跳ね上がる。
「っ……! だ、だめ……汚してしまう……!」
慌てて起き上がろうとするが、三日間の昏睡で体力が落ち切っているのか、少し身じろぎしただけで激しく息が上がった。
あの激痛はもうない。けれど――こんな立派なものを『化け物』の自分が汚せば、また鞭で打たれ、地下牢に戻される。
その恐怖が、反射的に体を強張らせた。
「無理に動いてはいけませんよ」
低く穏やかな声が、耳の奥を優しく撫でた。
ビクリと肩を震わせたロージーが顔を向けると、死の谷で自分を拾い上げた青年――レイスが立っていた。
「ご、ごめんなさい……っ! わたしのようなものが、こんな綺麗なベッドを……っ、はぁっ……」
少し言葉を発しただけで苦しそうに肩を上下させ、怯えて縮こまるロージー。レイスは音もなく近づき、ベッドの縁に腰を下ろした。
「あなたが眠っていた三日の間に、治癒魔術で怪我はすべて塞ぎました。服も侍女に着替えさせてあります。泥も血も、もうどこにも残っていません」
言われて初めて、ロージーは自分が純白の柔らかなナイトドレスを着ていることに気づいた。
そして無意識に頬へ触れ――息を呑む。
「……ない。結晶が……」
顔の半分を覆っていた黒結晶の硬い感触が、どこにもない。
あるのは、滑らかな自分の肌だけ。
レイスはサイドテーブルから銀細工の手鏡を取り、ロージーへそっと差し出した。
「見てみなさい。それが、あなたの本当の顔です」
ロージーは首を激しく横に振った。
「そんな……そんなはずありません。だってわたしは、ずっと化け物で……忌み子だと、お義母様たちも、みんな……っ」
混乱したロージーは、震える手で手鏡を押し返した。幻術か何かで騙されているのだと、ひどく怯えた様子でベッドの背に擦り寄って後ずさる。
十年以上、自分は醜い怪物だと骨の髄まで刷り込まれてきたのだ。他人の顔を映した鏡を見せられているのだとしか思えなかった。
「わたしは……化け物、です……」
震える両手で自身の顔を何度も、何度もさする。
けれど、ざらついた冷たい結晶はどこにもない。何度確かめても、指先に返ってくる温かく滑らかな肌の感触だけが、彼女が『人間』であることを残酷なほど優しく証明していた。
ぽたり、と涙が落ちる。
今まで何度も鏡を見せられた。化け物だと罵られた。忌み子だと蔑まれた。
けれど――鏡の中にいる少女は、どこにも化け物ではなかった。
「わたし……化け物では、なかったの……?」
胸の奥で、長年固まっていた氷が音を立てて崩れていく。
涙で滲む視界の中で、鏡の少女が少しずつ『自分』として形を持ち始める。
月光を溶かしたようなプラチナブロンド。
透き通る白い肌。
そして、夜空に輝く宝石のようなアメジストの瞳。
「これ⋯が……わたし……?」
震える声が、かすかに漏れた。
レイスは静かに頷き、自身の指先を見つめた。
「……あれが何だったのか、今の私にはまだ解析しきれません。詛いのような悍ましさは感じられず、かといって単純な防御魔法でもない。ただ一つ言えるのは――強力な魔術によって、あなたが『守られていた』ということです」
「……守られていた、ですか……?」
ロージーは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
けれど、それを素直に信じてしまうには、あまりにも長い年月を『化け物』として過ごしすぎた。
「あの……」
湧き上がる戸惑いを振り払うように、ロージーはすがるような目でレイスを見つめた。
「王都に残してきたハンスは……お爺さんは無事でしょうか。わたしを庇って、いつも怪我をしていて……」
その言葉に、レイスの瞳がわずかに揺れた。
(これほど傷つけられてきたのに……最初に案じるのは他者か)
泥に塗れても濁らない、あまりにも優しい魂。
その無垢さに触れ、レイスの胸の奥で、ただの庇護欲とは違う甘く重い熱が形を成し始める。
「……ええ。事態を察してすぐに部下を動かし、密かに屋敷から連れ出させました。今は私の領地で安全に保護しています。安心してください」
「……よかった……」
ロージーは胸を撫で下ろし、心底ほっとしたように息をついた。
コンコン、と控えめなノック。
侍女が湯気の立つ銀のトレイを運んでくる。
レイスはそれを受け取り、自らスプーンを手にした。
温かなスープを掬い、ロージーの口元へ差し出した瞬間――
「ひっ……!」
ロージーは反射的に身を縮め、両腕で頭を庇ってしまった。
鋭いものを向けられる時は、いつも血を抜かれる針か、罰の刃だった。
『さっさと抜け! こいつの血は、体内から出て鮮度が落ちるとすぐに魔力を失うんだ!』
苛立つ王子の怒声とともに、無理やり太い針を刺されて血を搾り取られた記憶が脳裏に蘇り、ガタガタと肩が震え出す。
レイスはスプーンを止め、しばらく待った。
無理に食べさせようとはしない。
ただ、怯えが静まるのを待つように、柔らかな声で語りかける。
「大丈夫ですよ。これはあなたを傷つけるものではありません」
その声音に害意がないと感じ、ロージーは恐る恐る目を開けた。
スプーンには、ふう、と冷まされたスープ。
(こわい……でも、この人は……)
葛藤しながらも、ロージーは震える唇をそっと開いた。
温かいスープが口に広がる。
野菜の甘み、肉の旨味。
地下牢で食べていた石のようなパンとは、まるで違う『食事』。
「あ……」
飲み込むと、冷え切っていた胃にじんわりと温かさが満ちていく。
二口目を含んだ瞬間――ぽろり、と涙がこぼれた。
「ぅう……っ」
温かい食事が、こんなにも美味しいなんて知らなかった。
人に優しくされることが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。
「あっ……熱かった? それとも、味が……?」
突然泣き出したロージーに、レイスは珍しく狼狽した。
どう慰めればいいのか分からず、手が空中で彷徨う。
やがて、おそるおそる背中に触れ、ぎこちなく撫でた。
「ゆっくりでいい。たくさんありますからね。……もう、誰もあなたを虐げたりはしない」
その声は戸惑いを含みながらも、どこまでも優しかった。
だが――ロージーの背を撫でる手とは反対の手で。
レイスの指先に握られた銀のスプーンが、静かに歪んだ。
金属が悲鳴を上げるように、細く、低く。
(……王子だろうが、継母だろうが関係ない。
彼女を傷つけた者には、必ず報いを受けさせる)
その怒りは声にならず、ただ冷たく燃えていた。




