第1話 死の谷に捨てられた呪われた子
ブチッ、と嫌な音を立てて、ロージーのプラチナブロンドの髪が乱暴に引き抜かれた。
「痛っ……」
「うるさいですね! 気味が悪い顔の上に髪までボサボサなんて、お世話をするこっちの身にもなってくださいよ」
暗く冷たい地下牢。メイドのベラが嘲笑いながらロージーの頭を小突くと、その背後に立つメイド長が冷ややかに見下ろした。
「ベラ、その忌み子に触った手はよく洗うのですよ。適当に餌を与えたら、さっさと出ますよ」
「はいはい。さあ、お食事ですよ。薄汚いネズミのように這いつくばってお食べなさい」
くすくすと笑いながら汚れた床に無造作に蹴り落とされる残飯。転がったパンは石のように硬く乾燥し、表面にはうっすらと緑色の斑点が浮かんでいた。
顔の半分を覆う悍ましい『黒結晶』のせいで、彼女を人間扱いする者はこの屋敷にはいない。
「や、やめてくだされ! ロージーお嬢様に何ということを……っ!」
見かねて止めに入った老執事ハンスが、メイド長の合図によって護衛に無惨に蹴り飛ばされた。
ハンスはこの家に先々代から仕える、唯一の味方だ。しかし力のない老体の彼は、いつもこうして血を流すことしかできない。
「うっとうしい!お前が庇うたび、奥様から苛烈な罰を受けていることを忘れたのですか?」
「ハンス……! もういいの、やめて……っ!」
メイド長に踏みつけられるハンスを見て、ロージーは涙をこぼした。
ロージーのプラチナブロンドの髪は、父が深く愛した亡き母の面影を色濃く残していた。だからこそ、継母はロージーを激しく疎んだ。
頼みの綱だった父が謎の急病で帰らぬ人となったあの日、ロージーは光の届かない地下牢へと突き落とされた。継母はただ「生かしておけ」と冷酷に言い捨て、使用人たちはその真意をすべて察したのだった。
――そんな地獄のような日々が、どれほど続いたのだろうか。
不意に、ギィィと重い鉄扉が開く音が響いた。
カツン、カツンと、湿った石畳には似つかわしくない、豪奢な靴の足音が近づいてくる。
そこへ、第一王子と義妹ミレイユが現れた。王子はハンカチで鼻を覆い、ロージーをひどく汚いものを見る目で射抜く。
「……さっさと済ませてくれ、ミレイユ。この空間にいるだけで息が詰まる」
「ええ。ですが、民を瘴気から救うためには、真の聖女である私の力を補うための……この忌み子の血がどうしても必要なのですわ」
ミレイユは慣れた手つきでロージーの腕に冷たい針を突き立て、血を抜き取っていく。自身の力だと偽り、聖女として振る舞うために。
その光景から目を背けるように、王子は誰に言うでもなく呟いた。
「……そうだな。次期国王として、私は国の安寧を最優先せねばならない。少しばかり血を貰うくらい、仕方のない犠牲だ」
自らの罪悪感を誤魔化すようなその言葉を聞いた瞬間。
地下牢の暗闇の中で、ロージーの心に小さな、しかし決して消えない火が灯った。
(国のため……? 違う。あなたたちは、ただ自分の保身のために、わたしを都合のいい贄として縛り付けておきたいだけじゃない……)
幼い頃から閉じ込められていた彼女の中に、初めて明確な「怒り」が芽生えた。
それはまだ微かな種火に過ぎない。しかし、ただ怯えていたかつての彼女とは違う、理不尽に対する確かな拒絶だった。
王子たちは身の安全のためと称し、護衛たちにロージーを引きずり出させた。ハンスの悲痛な叫びを背に、彼女は『死の谷』へと連行された。
凶悪な魔物が巣食う断崖絶壁。ミレイユの冷たい靴底に背中を蹴り落とされ、ロージーの意識は激痛と共に深い闇の中へと沈んでいった。
◆
同じ頃。死の谷の底では、ノクタヴェラ公爵レイスが魔物の死骸の山を越えていた。
荒々しい咆哮と血の臭い。その中に、異質な人の気配を感じて足を止める。
「……血の匂い、か」
岩陰に倒れていたのは、顔の上半分をどす黒い結晶で覆われた少女だった。
近づき片膝をついた気配に気づき、痛みに喘いでいた少女――ロージーは、ビクッと体をすくませた。
「……っ、見ないで……」
恐る恐る結晶の隙間から見上げた先。
そこには、夜の闇に浮かび上がるような青年が膝をついていた。月明かりを反射する澄み切った青い瞳と、刃のように冷たい影を落とす高い鼻筋。泥と血にまみれた自分がとても並び立てないと思わせるほどの、息を呑むような美しさだった。
彼が状態を確かめようと、そっと手を伸ばしかけた瞬間。
「ひっ……! ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
ロージーは両腕で頭を庇うように強く目を閉じ、ガタガタと震えだした。
他者の手は、自分に痛みを与えるためのもの。視界に入ってしまっただけで罰を受けるという極度の恐怖から、掠れた声でただひたすらに謝罪を繰り返した。
氷のように冷ややかだった青年の瞳が、愕然と見開かれた。
ボロ布の隙間から覗く無数の鞭の痕と、異様なまでに痩せ細った体。
レイスは少女の体に刻まれた痕を、ひとつひとつ確かめるように視線でなぞった。
そのたびに、胸の奥で何かが静かに軋む。
そして、最後の痣を見た瞬間――。
空気が鋭く凍りつき、レイスの足元にあった硬い岩床が、メリッと音を立てて蜘蛛の巣状にひび割れた。
彼自身も気づかぬほど深い怒りが、無意識のうちに莫大な魔力となって漏れ出したのだ。
「ひっ……!」
「……すまない。君を怖がらせるつもりはないんだ」
自身の怒気で少女がさらに身を縮ませたのを見て、レイスは即座に魔力を抑え込んだ。
冷徹な貴公子と呼ばれる彼が、まるで壊れ物に触れるように、躊躇いがちに優しく手を伸ばす。
「もう怯える必要はない。……少しだけ、じっとしていてくれ」
彼は無抵抗なロージーの肩を抱き寄せると、自身の肩にかけていた豪奢な外套で、震える体をすっぽりと包み込んだ。
生まれて初めて触れた、他者の温もり。
張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、ロージーは彼から漂う凛とした香りの中へと、今度こそ完全に意識を手放した。
ロージーの呼吸が安定するのを確認し、レイスはすぐさま高位の治癒魔術を展開した。
温かな魔力が彼女の体を包み込み、酷い外傷と体内の毒を浄化していく。
その過程で、レイスの指先が、彼女の顔を覆う『黒結晶』に触れた。
「……?」
直後、レイスの魔力に呼応するように、冷たかったはずの黒結晶がカッ、と異常な熱を帯びた。
ピキリ、ピキキキ……。
硬い殻に亀裂が走る音が響く。結晶の表面に幾筋もの光のヒビが入り、次の瞬間、パラパラと音を立てて砕け散ったのだ。
「……待て。これは呪いではないのか?」
レイスの青い瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
砕け落ちた破片の下から現れたのは、悍ましい顔などではない。
月光のように艶やかなプラチナブロンドの髪と、奇跡のように整った白磁の顔立ちが、そこにあった。
(今まで見てきた呪いとは根本的に違う。……これは、何かから彼女を『守る』ための術式か?)
明確な正体は分からない。だが、決して彼女を害するためのものではないと、彼の卓越した魔力感知が本能的に告げていた。
レイスは、腕の中で眠る少女を見下ろした。
泥と血に塗れ、壊れかけている。だが、その命の輝きはひどく美しかった。
ただの「虐待された哀れな少女」を助けるつもりだった。だが、彼女が抱えていたのは、国ひとつを傾けるほどの規格外の魔力だった。
「……君を傷つけた者たちには、相応の報いを受けさせなければならないな」
レイスは彼女の銀糸の髪を撫でると、抱き上げた腕にわずかに力を込めた。




